星屑へのエシャペ-2

「あーあ。彼女は帰ってしまったのか」


 階段の手すりに顎を乗せた鶴丸がぼやいた。面倒くさそうに顎を乗せているくせに、喋る時には顎を動かさずに頭を動かす。器用なやつだと呆れながらも、自分を咎めているのだろうかと眉を潜めた薬研の事を、鶴丸がふふりと笑った。


「やれ、藤四郎の刀にしては自我が強い刀だ」

「そりゃどーも」

「おいおい、俺は褒めているのさ。ここまで強く彼女を追い返したのは、この本丸始まって以来だ。いや嘘をついたな。実は過去一度多少強引に返した事はあるが、まあそこら辺は言葉のアヤだな。多少話を盛る事にしよう。つまりこの本丸始まって以来の大事をお前は引き起こしたわけだ。普段は小狐丸や燭台がやんわり成すような事を、君は口を大きく開く事で実行したわけだ。いや大した刀だ。これは流石粟田口派の名刀と歌い騒ぐべきかい?」

「……随分と饒舌になるじゃないか。主人が居なくなってそんなに淋しいのか?」


 苛立ちを隠せない侭に口にした言葉は鶴丸に噛みついた。何故この刀が突然機嫌よく口を回し始めたのかも理解ができないし、まるで自分が行った事が過ちであるかのように揚げ足を取られるのが純粋に気に食わなかった。薬研は閉じられた扉から視線を離せば、鶴丸は上機嫌に首を傾けた。


「寂しい嬉しいというより、この場合は面白いだな。薬研藤四郎。この本丸は実に面白い。子供が理解できない玩具に向かって手を叩いて喜ぶような、そんな軽薄な感情ではあるが、とても面白い場所だと俺は思う。これからお前もその様を目にすることになる。俺はそれにとてもわくわくしている。けれども俺がこうして喋りだしたのは、何も赤子よろしくはしゃいでいるからではない。語り部が一人使い物にならなくなるのだ。そうなれば、誰かがお前に向かって語るしかないだろう?」


 何を言っているんだろう。こいつは。手すりの上でからくり人形のように、喋るたびに頭をかくかく揺らすその様を訝しげに睨んだ。胡散臭い上に言葉回しが回りくどくて妙だ。気味が悪い。まるで質の悪い類の甘味のようだ。喉に引っかかって、飲み込めず、消化するのに時間が掛かる。からからと笑ってみせる癖に笑ってなんていない。人が良さそうに慰めてみるくせに慰める気なんてない。そんな鶴丸国永という刀はまるで絵画のようだった。手のひらに妙な汗が滲む。何を気後れする必要があるんだと、自身を鼓舞するように手を握り締めた。


 なんのことかと声を上げる前に、薬研は身体が弾かれた。体内で走る、ばちりとした痛み。衝撃。唐突な拒絶。合わせるようにして突然、かちりと時計の秒針が時を刻んだ。瞬間、その部屋に轟音が響いた。部屋の中を乱反射して音が響きながら頭を割る。唐突な雷に似た音に、薬研はしきりに心臓をなだめた。耳の奥で鼓動が騒ぐ。何が起こったのかしきりに辺りを見渡して、漸く理解した。指先がぴりと痛みを感じるのは、まさか痛覚がつながっているとでもいうのだろうか。例えば瓜二つの人間がそうであるかのように。薬研は思わず一度唾を飲み込んだ。状況を理解するよりも先に、声がほろりと生まれた。


「……一期、一振?」


 薬研のその言葉に返事はない。ただその言葉が虚無に飲まれるばかりで、それを憂うようにして漸く鶴丸が口を開いた。


「死んではいないさ。眠っているだけだ」


 静かに振り返った先で、からくり人形のような鶴丸が言った。

 轟音の正体は一期一振だった。否、一期一振だったのだろうと薬研は心臓を宥めながら推測した。今まで散々と虚無だ虚ろだと言ってはいたが、一期一振は確かに人の体を持ち、人のように呼吸をし、人のように歩いていた。存在していた。確かに、生きていた。確かに、呼吸を繰り返していた。そうして確かに存在を保っていた。それが、どうだ。今は。


「……本当に、眠っているだけ、なのか?」


 まるで剥製のようだった。立っていた所からそのまま崩れ落ちたのだろう。否、気を失ったのだろうか。自身の刀身からも手を離した様は、先ほど見た一期一振によくできた作り物だと言われる方が説得力があった。確かにまるで何も詰まっていないような、不出来な贋作のような違和感のような物はあったけれど、これではまるで、本当に何も詰まっていない、外側だけを丁寧に作りこまれた人形のようだ。息を、しているんだろうか。それともこれは、息をしないものなんだろうか。薬研は一瞬、自分が呼吸ができる事を忘れていた。


「嗚呼、眠っているだけさ。今のところはな。夜になったんだ。人でなくとも眠りにはつくだろう?」


 鶴丸は漸く手すりから顔を持ち上げれば、今度は暇そうに歩みを始める。少し埃っぽいソファにそのまま腰をかければ、くあと大きく欠伸を零した。その言葉を聞いて、薬研は漸く視界の違和感に気がついた。暗い。手元も、そうして部屋全体が。ぼんやりとした橙色のランプに曖昧に照らされた部屋の中は、暖かさがあるように見えるのに、閉鎖的で狭い。所々薄暗く部屋の中に影が落ちて、まるでその薄暗さはどこかに繋がっているかのようにも思う。否、ここがどこでもない場所ならば、繋がってしまっても、何もおかしくはないのだろう。

 ジジ、とランプの中で光が揺れた。相変わらず窓の向こうはただひたすらに、塗りつぶされたような紺色だった。


「……今のところはって、どういう事なんだ? これから死ぬかもしれないという事なのか?」


 うんうんと頷いた様に薬研は瞳を丸くしたが、鶴丸はそれを見やるまでもなく、もう一度暇そうに欠伸を落としてから、ソファの上で組んでいた足をのんびり組み替えた。


「気になる事は山のようにあるんだろうなあ。好奇心旺盛なのは実に結構だ。けれども、まあ、一先ず夜だ。ホットミルクの一つでも用意しながらのんびり対談といこうじゃないか」


 薬研は思わず眉間に皺を寄せた。当たり前のように放り投げられた矛盾にいらつくようにして拳を強く握り締める。


「この本丸に夜は来ないと言ったのはアンタだぞ。鶴丸国永。ここは世界から隔離された、どこにも存在しない場所だと。どこにも存在しないからこそ、どこへでも行けるのだと言ったのもアンタだ。現に俺は、ここに来てから夜が来たことなんて一度もなかった」


 噛み付くような薬研の言葉に、鶴丸は頭を後ろに引いた。ソファからだらりと頭だけ零すようにして喉を伸ばし、口を開ける。


「嗚呼、言った。確かにこの本丸に夜は来ない。ここは世界のどこにも存在しないから、どこにも存在しないこの空間に夜なんて概念は存在しない。……が、それはここの主がこの本丸に居ればの話だ。大前提だ。大前提が崩れれば、世界というのは尽く崩れていくものだ」

「……納得がいかない。意味がわからない」


 薬研の言葉に鶴丸は形だけ笑った。そうだなぁと形だけ悩み、形だけ頭を軽く掻いた。


「まず、この本丸は少々異質だ。とはいえ、騒ぎたてる程のものでもなく、取り立てて指を指すほどの事でもない。けれどもほかの本丸とはやや違う所が多い故、まぁわかりやすく異質と説明する事にするが、なんてことはない。この本丸の主は、全うすぎる普通の人間なのさ」


 鶴丸の言葉に、薬研は余計に眉間にシワを寄せた。


「見ればわかる。大した霊力もなければ、そういう家の出でもないのだろう」

「そうさ。この本丸の主は普通の人間さ。大した霊力もなければ血筋でもない。特別他人と異なる素晴らしい異能を持つわけでもなく、語る物語がある程異端でもない。掘り出せばどこにでもいるような些細な人間の鏡と言ってもいいだろう。歴史からつまみ挙げられる事もなく、残るわけでもない。在り来りな人並み程度の悲劇を悲観的に抱き抱える、在り来りな子供だ」


 鶴丸が自身の身体の下に手を突っ込む。ソファと身体の間をしばらくもぞもぞ漁って取り出したのは小さなぬいぐるみだった。ボールチェーンのついた手のひらに乗る程度のそれを愉快そうに軽く揺らした後、ふうと息を吹きかける。白いうさぎの形をしたぬいぐるみは、鶴丸の手のひらの上で飛び跳ねた。


「その少女は可哀想な事に、家庭に恵まれなかった。両親は少女を厳しく躾け、特に世間体を非常に大切にした。なるべくその少女を、つまり自慢できる我が子にしようとしたわけだ。けれども少女は特別な子ではなかったから、両親が思うように上手く事を進められなかった。両親はそれを認めず、更に厳しく育てた。そうして両親に否定され続けた少女は次第に内向的な性格へと育ち、それは両親の癇癪を加速させた。唯一、少女が誇れる物は習い事の一環として身につけたバレエだったが、ごく平凡な少女はそれすらも才能を開花させる事はなかった。内向的な少女が家を出てから自身を開放できるわけもなく、家でも外でも、少女を弾圧する声は多かった。何をしても声をあげない少女を、周りは酷く愉快に思う者すらいたのだろう。その手は次第にエスカレートしていき、ついに少女は、部屋から一歩も出られなくなった」


 語り口はまるでどこかの御伽でも、語っているかのようだ。手のひらに乗っていたうさぎのぬいぐるみはそのまま鶴丸の手のひらから飛び落ち、ソファの足元を嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねていた。


「それを世間体を大切にする両親がよく思う筈もなく、両親は自らの面子を守るために売った。出来損ないで平凡な娘を、政府に売ったのさ。求む審神者。時の守り手。正義のヒーロー。人材不足で幅広く人材を求めていた政府に、大事な一人娘を差し出した英雄として、世間体を保とうとしたのさ。結果、両親の目論見は成功。出来損ないで平凡な少女は、まるで自らの身を呈してまで世界を守ろうと自ら志願した、悲劇のヒロインとして両親の面子を守る事に成功したのであった。めでたしめでたし」


 ぱちぱちと手のひらを叩いた拍手に釣られて、ぬいぐるみは跳ねた。嬉しそうに飛び跳ねる様に、鶴丸も釣られてうんうんと頷いた。薬研は漸く瞬きをひとつ落として、鶴丸をもう一度見やる。


「なあ、ありきたりで普通すぎる、よくある話だろう?」

「……アイツの、出生は分かった。それと今の現状と、一体なんの関係がある」

「はあ、せっかちなやつだなぁ。君は」


 呆れるように口をぽかんと開けてみせた鶴丸が、やる気のない拍手を留めてだらりと手をソファに落とした。


「まあ結論だけ言うならば、その少女にもある種特記するべき点がひとつあったという事だな」

「特記すべき、点?」

「そう。少女はある意味特別だった。いや、非凡を貫きすぎて特別になってしまったと言えばいいのだろうか。もしくは最後まで非凡を貫けなかったといえばいいのだろうか。彼女が他人よりも優れて、強いものがあった。なんだと思うかね」


 鶴丸の言葉に、薬研は喉を締められるような気持ちだった。一瞬、一期一振に視線を向ける。変わらずぴくりとも動かない、まるで飾り物のようなそれから逃げるように視線を逸らした後、首を左右に軽く振った。鶴丸は少しばかりつまらなさそうにしながらも、頭の後ろで手を組んだ。


「欲望だ」

「欲望?」

「そうさ。人間だけが持ち得る感情。あれが欲しい、これが欲しい、あれが羨ましい、これが羨ましい。例えば綺麗に言い換えるとするならば、生きる力だな。うん。少女はそれが強かった。欲望を持たぬ人間ならそのまま自殺してしまっても、なんらおかしくはなかった。だって少女を慕う人間なんて誰ひとりとして存在しなかった。物理的にな。平凡ならそのまま部屋で冷たくなっている所を見つかっても然程驚きもしないが、少女は審神者として本丸という居場所を頂いた。どこでもない場所を与えられた。それは自宅の屋根裏部屋と繋がる、少女の小さな隠れ家だ。それを得て、少女は何を思ったと思う?」


 機嫌が良さそうに弧を描いた唇が、愉快そうに動いた。


「友人が欲しい、だとさ」


 薬研は思わず息を飲み込んだ。思い当たる節がある。ひとつ。


「……加州清光」


 そうだ。嗚呼、そうだ。あの刀は特に刀らしくなかった。まるで少女の肩を持つようで、まるで任務なんてどうでもいいようで。まるで、それはまるで、誰よりも少女を理解しようとする、友人のようで。

 鶴丸が何度か軽く頷いた後、思い出したようにソファの下へと視線を投げる。元気に飛び跳ねていたうさぎのぬいぐるみは、まるで電池でも切れたかのようにぷつりと動かなくなっていた。


「俺達は人と契約を結ぶ。それから漸く顕現と至るわけだが、力がなければ契約も叶わない。そもそも力が無ければ俺たちを認知する事もできない。けれど、この少女は願う力が他人よりも強かった。それは生まれから来た執着にも似ているのだろう。欲望、執着、人の生きようとする力とは何にも勝る力になる。だから、契約をすっ飛ばして、引っ張ってきた。少女は勝手に、欲しい物を欲しいだけ、この空間に奪ってきたのさ。薬研、お前も覚えがあるだろう。何か強いものに引き寄せられる感覚。通常であればそれは霊力であったり、清らかなる物である筈だが、この場所ではまるで赤子が我が儘に玩具を引っ張ってきたような物にほかならない」

「じゃあ、一期一振が、兄に固執するのは」

「そうあれと、少女が願った。故意か無自覚か。少女が友人の次に願ったのは、自分の味方である面倒見のいい、完璧なお兄ちゃんだった。それだけの話だ。この本丸の初鍛刀が一期一振の理由さ。初期刀と初鍛刀の二人は、特に強く引っ張られたんだろう。結果があの一期一振の異常なまでの空っぽ具合さ。一期一振という刀の矜持よりも、彼女の兄である事を優先している。いや、優先しているのか、そもそも自分が一期一振という刀であるという自覚自体がないのか。あるいは刀であった時の記憶が全部こそげ落ちたのか、そこまでは知らないがね。けれど、まったくもって、張り合いがなくて困る。……まぁ、逆を言えば、刀としての在り方を強く歪ませる程、強引に引っ張ってくる力がその少女にはあったという話だが」


 指先で頬を掻きながら他愛なく喋る鶴丸の姿に、薬研は何度か前のめりになった。心臓が煩い。頭が妙に、ガンガンと痛む。


「突然、一期一振が倒れたのは」

「少女と繋がりの深い刀は、少女がこの本丸から立ち去ると何かしらの不具合がでる。元より霊力のない子だ。行き場のない現世に帰った所で平常心で居られる筈もない。情緒不安定。霊力の乱れ。一期一振なんかは灯りが落ちたみたいにぶっつりと意識を無くす。……こうなるといよいよ人形みたいだろう」


 ソファの下の動かなくなったぬいぐるみを鷲掴みにして拾い上げれば、何か入っていないのかと耳元で軽く振る。何度か鶴丸がその行動を繰り返したが、鈴の音一つも聞こえなかった。


「一期一振だけなのか、この症状は」

「いや? 俺やお前が珍しいくらいだな。加州はあの扉の前から一歩も動かなくなるし、光忠も中々愉快な事になるぞ。三日月は滅多に部屋から出てこないからなぁ。詳しい症状までは定かではないが……小狐丸は目が見えなくなるのだったか」


 唐突に存在を仄めかされて、薬研は慌てて振り返った。ぼんやりとその場に立ち尽くす小狐丸の姿は確かに瞳がどこか虚ろで、ぼんやりと視点が定まっていないのが見える。けれど鶴丸の声に反応するように顔を上げれば、常のように緩やかな弧を口元に描いた。


「……匂いや音である程度。支障が無いといえば嘘ではありますが。しかし、見えないのではぬしさまが帰ってくるまでに、お部屋を片付けて差し上げることもできませぬゆえ。やはり不便でございます」


 静かな言葉で語る声は日の落ちた部屋の中でのんびりと落ちた。


「けれども、……今回は些か、ぬしさまの身が心配です」

「……心配?」


 小狐丸は一度軽く頷いてから、すんと鼻を軽く動かしてみせた。


「視界どころか、匂いがとんとわかりません。ここはぬしさまの望んだ場所。ぬしさまと深く繋がる空間。謂わばあの方の理想と希望。元よりこの空間の変化はあの方にとって、宜しくない事」

「何故」


 音を探るようにして、小狐丸は静かに薬研を捉えようとした。曖昧に向けられた顔に飾り付けられた、光のない瞳が、出来損ないの宝石みたいで妙に美しい。


「ぬしさまは、もう外の世界に自分の居場所は無いとお考えです。あの方が生きる事にしがみついた結果、この場所までたどり着いた。けれど、それでは、この場所から放り出されたぬしさまは、一体どこで生きていけばいいのでしょう」


 それは、と紡ごうとした薬研の言葉は、妙な喉の渇きと共に消えた。


「この場所は希望、この場所は理想。それが歪むという事は、あの方がこの場所を疑い始めているという事。あの方がこの場所を否定し始めているという事。あの方の心が酷く乱れているという事。……一期一振の言葉ではありませんが、あの方は決して強い方ではありません。あれが、最後の別れにならないといいのですが」


 そうして、小狐丸は柔らかく笑った。


「……戯言です。どうかお忘れに」


 軽く頭を下げた小狐丸は右手を伸ばした。壁を探すようにして指先で空間を探し、一歩、一歩と丁寧に歩いていく。まるで痛々しいその様に薬研は咄嗟に視線を外した。ソファに寝そべった鶴丸がぬいぐるみに飽きたのか、自分の頭の後ろに向かって興味をなくした子供のように放り投げた。


「……俺を責めているのか」


 薬研の言葉に鶴丸がぐるりと顔ごと薬研に向ける。瞳を大きくして、まじまじとその表情を見つめた。


「まさか。俺はただこの本丸の裏事情をお前に伝えたにすぎない」

「何故」

「退屈だからさ。そうして興味があったからだ」


 興味、と薬研が釣られて唇を動かす様に、鶴丸は口角を持ち上げた。


「言っただろう。この本丸は皆何かしらの役割がある。お前にも、勿論俺にも。一期一振は寵愛。完璧な兄を。小狐丸は慈愛。両親のような無償の愛を。三日月が――おっと、過度なネタばらしはやめよう。気になるなら自分で確認してみてくれ」


 ふわりと宙を舞う手のひらが人を茶化すように揺れたあと、鶴丸はソファの上で軽く身体を伸ばした。


「癖は強いが、俺はこの本丸がどうにも気になるんだ。役割に囲われたお前が、この本丸の中でどう生きていくのか、そうしてこの本丸がどう変わっていくのかが、ただ純粋に、気になるのさ」

「……俺のこの行動も、役割に基づいてのものだと?」


 薬研は漸く、あの一期一振があれだけ虚無に溢れていた理由が、なんとなくわかったような気分だった。


「俺のこの感情も、この衝動も、アイツから与えられた、役割に基づいてのものだというのか?」


 薬研の言葉に、鶴丸は驚いたように瞳を丸めた。


「嗚呼、そうだ」


 話を聞いてなかったのか、と確認されるように問われた言葉に、肩の力が抜けた。指先が痺れるようにして微かに震える。


「じゃあ例えば、俺がこの本丸に苛立ちを抱えていた事も、例えば俺が、あいつを追い出したことも、例えば俺が、こうする事も、全部、定められた事だと」


 静かに落ちた声に、反応するものは居ない。鶴丸は不思議そうに首を傾けた後、嗚呼と納得するようにして口をぽかんと開けてみせた。


「成る程。君は自分の役割が分かっていないのか。可哀想に。では俺が代わりに教えてやろう。きっとあの子だって、自覚は殆ど無いだろうからな」


 ぺたりと、素足が床に触れる。そんな間抜けな音が、薬研の心を妙に崩した。まるで世界の終わりみたいだ。たったほんの少しだけの時間だったけれど。嗚呼、そうか。ここはそういう場所なのだ、と薬研はぼんやり実感した。


「君の役割は渇愛だ。彼女が求めた、たった一辺の非日常。夢に見た非現実。錯覚。まるで遊園地に飛び込むような、心臓が踊る、衝動。君は見事役割を果たした。衝動に駆られ、非日常をあの子にプレゼントした。しかしながら、君の役割はここまでだ。だって、お前とあの子はそういう契約だから」


 そう言い放ったあと、鶴丸はふと思い出したようににして首をかしげた。


「ン? そうなると役目が終わった君は一体なんなんだ? 何の為にここに居て、君はなんになるんだい? まあいいか。そんな些細な事は。どうせこれから、君の結末を見ることもできるんだし」


 笑った鶴丸国永の表情は、なんだかとても美しく見えた。


「な、面白い場所だろう?」


 薬研は返事をする前に、何かが途切れたような音を聞いた。



***



 扉が開いた音がして、薬研は目を覚ました。いつから寝ていたのかはわからない。ただ、どうにも眠たくて、眠ってしまいたくて、自分がどうやって眠ったのかも記憶にない。疲れていたのだろうか。瞼が未だに重くて、柔らかな睡眠に喉を締められるような痕が残る。眠っていたい。眠ってしまいたい。


 静かに登る足音に、薬研は思考を鈍く働かせた。嗚呼、誰だ。誰だろう。ずっと待っていた。ずっと待っていたような気がする。眠るよりもずっと大切で、ずっと、待っていたんだ。重りのような瞼を何度か動かして、漸くその足音の主を思い出した。その少女が不安そうに薬研を静かに見ていたからだ。嗚呼、と薬研は心を痛めた。可哀想に目が腫れている。きっと泣いたのだろう。目が腫れても尚、泣いたのだろう。真っ赤にして、嗚咽して、それでもずっと泣いたのだろう。可哀想に。可哀想に。


「あの、……その格好は、どうしたの?」


 震える唇で少女はやっと絞り出した。怒る様に追い出した事を気にしているのだろうかと思ったが、少女の指摘で、薬研はゆるりと自分を見下ろした。見た事のない格好だった。戦装束をどこで脱いだのだろう。それを何処にやったのだろう。ふと違和感を感じる事はあったけれど、どうでもいい。そんな事はもう、どうでもいいのだ。


「さあ、分からない。けど、いいんだ。そんな事」


 薬研は静かに少女の手を取った。震える指先を拾い上げた。可哀想に。怖がって、可哀想にと、思う。けれどそれも些細な事だった。もう薬研にとってはそんな事すら些細な事だった。いいのだ。震えている指先でも。今後そうさせなければいい。そうだ。嗚呼。そうなのだ。今はとても、なんだか清々しい気分だ。


「俺が悪かった。俺が悪かったんだ」


 まるで開放されたような気持ちだった。まるでもう死んでしまったような気持ちだった。高い所から飛び降りて、風にまみれて笑いながら生を手放してしまったような気分だった。海の中に深く沈んでしまったり、森の中で眠りについたような気分だった。どうでもいい。もうあまりにも何もかもがどうでもいい。ただそれだけが幸福だった。


「仲直りしよう、あるじ様。今日から俺も、貴方を守るよ」


 ここはゆりかごだった。正しく少女のゆりかごだった。そうして、ここは正しく墓場だった。誰からも求められず、誰からも捨てられ、誰からも逃げて死んだもの達の、最後に行き着く場所なのだ。だから、いいのだ。どこにも行かなくてもいい。ここで死んでしまえばいい。死人に足はないのだから。死人が帰る場所が、このゆりかごなのだから。いいのだ。もうなにも。求めなくてもいい。期待しなくてもいい。変わらなくてもいい。そうやって、墓場でゆりかごに揺られていれば、いい。もうなにも、変わらなくていいのだ。


  Humpty Dumpty sat on a wall,

  ハンプティ・ダンプティ塀の上

  Humpty Dumpty had a great fall.

  ハンプティ・ダンプティ落っこちた

  All the King's horses, And all the King's men

  みんながどんなに騒いでも

  Couldn't put Humpty together again!

  もうもとへは戻らない

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