Mr.バロッテはかく語り
人生というものは不純物の塊だ。自身の意志という不確かな要素は勿論の事、親の経歴、生まれ、環境、奇跡、偶然、必然、まぐれ、たまたま、きまぐれ、起こるべくして起こる事。そんな理不尽な物が小さく小さく小さく凝縮された物を、人は人生と呼ぶ。
俺はそんな不純物だらけの人生が大好きだ。所謂バッドエンドも、ハッピーエンドも大好きだ。人生と呼ばれる不純物の塊に、魅力すら感じている。けれどもあえてひとつ、蛇足ながらも決して間違えてほしくない事を言うならば、俺は、その不純物の塊とも言える人生の結末が好きなのではない。結果ではなく、俺はあくまでも過程が好きなのだ。
考えてみてほしい。一体この世に何人が、
「それから二人は、永遠に幸せに暮らしました」
という末文に心をときめかせるのだろうか。この言葉だけを聞いて、はあ良かったそれは良かったと手を叩いて涙を流し、なああの二人は本当に幸福になったよなと仲間と話しながら帰路につくほど祝福できるだろうか。答えはこうだ。
「へぇ」
ただそれだけ。それだけだ。
考えてみてほしい。この末文が何故こうして世界中の至る所で語られているのか。何故これを人が好み、愛し、そうして伝え続けているのか。それはこの末文があまりにも魅力的だからではない。その過程が、美しく、人々の心を打っているからである。
例えば昔々で始まる話の大抵は、主人公は貧しかったり、悲しい生まれの中生きている。その後いろいろな経過を経て、その生まれを乗り越える程の力や、地位や、金や、あるいはもっと別のものを手に入れて、ようやくめでたしめでたしとなるわけである。つまりはエンディングが重要なのではない。エンディングに辿り着くための過程に、人々は胸を打たれるのだ。そうだろう。これが一般的な人生をのんびり語られるだけの物語であれば、きっといつかはどこかで消える。世間ではこれを世間話というのだが、まあその話はまた今度にしよう。
話を戻すとして。俺は人生という過程が好きだ。不純物だらけの物語が、たまらなく好きだ。不純物は混ざれば混ざるほどよい。例えば想像しえなかった自体が起きれば起きるだけ良い。極稀にその過程を自分の思い通りに進ませる事を好みとするやつもいるが、あれは趣味が悪いと言わざるをえない。俺から言わせてみればつまらない遊びだ。そうだろう。自分がそうあれと仕組むんだ。そうなるに違いない。用意されたエンディングに興味はない。だって君が物語を読む前に、嗚呼この話はハッピーエンドだぜと言われて、話を聞く気になるだろうか。少なくとも俺は、ならない。
「へぇ」
やはりこの一言で終わる。物語を紐解く上で重要なことは、これからどうなってしまうのかわからないことだ。ただそれだけだ。結末が分かった物語を紐解く必要は限りなく低くなる。そうなると、あながち末文の話も莫迦にはできなくなってきた。過程があるからこそ結果がより輝くということなのだから。そもそも結果というものもある程度は必要であって然るべきものなのだろう。
それから俺は、その愛する人生と言うものを、なんとか形にして保存できないものかと考えた。形として保存できれば、もっと素晴らしいものになるのではないかと考えたのだ。俺はそれはそれは悩んだ。そうして人生と似た、沢山の物が混ざって成り立つ、一つの素晴らしい物の存在に気がついた。それから手始めに、俺と縁のあった人間の人生から、茶葉にしてみることにした。
不確定な要素というのは、意図的に起こそうとしても中々難しい。だからこそ不確定な要素と言うに相応しいのだが、あるいはそれがいつまでたっても起こらない場合もある。そうなるとつまらない。至極つまらない。なるべく不確定な要素を排除しようとする輩すらいる。けれどもそれが、俺にとっての面白い不確定要素だと最初こそ心を弾ませながら見ていたが、何の事はない。当たり障りのない、事故のない、問題もない、突拍子もない、悲しみもない、喜びもない。そんな平坦ななんてことない人生だった。その輩は誰かに見守られることもなく、当たり障りないままに老衰で死んだ。彼の人生で試しに作った茶葉はあまりにも味がなかった。まるで液体にしたガラスでも飲んでいるみたいだ。色味もさほど無いそれを、俺は柄にもなく早々に捨てた。
またある時には、不確定要素をこよなく愛する輩もいる。所謂ギャンブラーと言われるような人種であり、俺が知る者は運こそが嗜好、堕落さえも至高という狂った輩であったが、見ている分には十分楽しかった。時には人の頂点に立つまで身を金で纏い、時には自身の身体を売るほど没落したが、それでもどこかほくそ笑み、今に見ていろと虎視眈々と不確定要素を愛する準備を進めるような狂人者だった。その輩の人生に安定などという言葉は一欠片も無く、ただひたすらに、運だった。何を考えるわけでもない。何を思うわけでもない。何を感じるわけでもない。ただその無防備なままに時と運に身を任せることに快楽を感じていたあいつは、露出性癖がある輩となんらかわりはしない。ただ何一つ身に纏わぬまま、崖から飛び降りることに興奮を覚えているのだ。彼女の人生で作った茶葉は見た目こそ華やかであったが、辛かったり甘かったり苦かったりと、味の移り変わりがどうにも激しい。一杯目こそ楽しんだが、二杯付き合う気がしない。俺はそれもやはり早々に捨てた。
俺が思うに、こういうものは躍らされるのが一番なのである。回避するわけでもなく、快楽を感じるのではなく、嗚呼私は一体どうなるのかしらと踊っているのが一番いいのだ。愛した男に先立たれた女の人生は、非常によろしかった。彼女は幾分か不運であり、それを少しばかり自覚していた。適度に不確定要素から身を守りながらも、その要素は彼女の守りをするりするりと抜け出して蝕んでいく。守りを固めていたはずなのに、彼女は少しずつその不運に踊らされる。嗚呼どうしたらいいのかしらなんて夜に静かに泣いて途方にくれながらも、時折愛した人を思い出して決意を固めるのである。なんと美しい悲劇なのだろう。愛した男が居なくなってからというもの、彼女をエスコートするのは不運だった。きっと不運も彼女を愛したのだろう。彼女は日に日にその不運に取り囲まれ、やがてぐるぐるに縛り付けられてしまった。そこからは、まあ、ご想像の通りだ。彼女は結局自殺した。不運の野郎は、どうやら相当のエスコート下手のようだ。俺も今度見つけたら、少し言ってやらねばいかんだろう。長く躍らせるためにはもう少し、力の加減を考えろと。けれども彼女の人生で作った茶葉はしばらく俺のお気に入りだった。湯を注ぐと茶葉がくるくると舞って目にも良ければ味も良い。けれどもエンディングがまずかったのか、彼女の茶葉に二度目はなかった。固まってしまうのだ。湯を注ぐと、それこそまるで道端に捨てられたゴミのように。俺は残念に思いながら、それをすてた。
やはりある程度は不確定を楽しめる方がいいだろう。男であればそれに強い筈である。その男は英雄だった。いや違う。英雄に憧れていたというべきだろうか。小さな頃から不確定から人を助けたがるような少し不思議な性格だった。この時点で俺は何か楽しそうな事が起こりそうだと心が弾んでいた。案の定だった。その男はやがて本当に不確定から人々を守る仕事についた。周りが心配するその言葉にも笑ってみせ、男は例えば火事や、災害や、人的被害から次々と人々を救った。嗚呼可哀想に。もしこの男がもう数十年早く生まれていればあの女も幸せになったかもしれないのに。いや。もう捨てた人生の事はやめよう。男は不確定を、ある意味愛していたと言えるだろう。不確定な不幸せがあるからこそ、その男は憧れていた英雄になれたのだ。英雄とは、平和には生まれない。不幸があり、不幸せがあるからこそ、人々は誰かに救いを求め、それを救う人間を英雄と称えるのだ。だからこそ男は愛していた。その不確定と、それに負けて助けを乞う人々の事を。英雄と讃えられた男は意外にもあっさりと死んだ。頭上から落ちてきた鉄骨の下敷きになったそうだ。丁度現場を目撃できていなかったが、なんだ、自分の不確定要素には案外弱い男なのだなと、その時にようやく思った。男の死後はそれはそれは盛大な葬式が催された。そんな男の人生はさぞ美味いのだろうと楽しみにしていたが、何の事はない。案外あっさりとした後味に拍子抜けして、俺は半分だけ飲んでからカップからその紅茶をすてた。
人生を茶葉にするというのは、我ながら天才的な案だと思ったのだが、やはり中々うまくいくものではない。第一、一通りの人生を茶葉にしてみたものの、まずそもそも形にならなかった物が二百、湯で味が溶け出なかった物が五百三十二、口に淹れるような味にならなかったものが八百七十九。なんとか形になった四つも結局はすてた。なるほど。なかなかに難しい。鶴丸国永は大きくため息を吐いた。雑味のひどい紅茶をカップごと壁に叩きつけて割った。ぱきん、と白い磁気に罅がはいる。鶴丸はその一部始終を眺めたが、やがてカップは美しい音を立てながらその肌に亀裂を走らせ、床に触れることで完全に形を崩した。鶴丸国永は呆れるようにしてため息を吐いた。
落胆しているわけではない。見限ったわけではない。散々裏切られるような気分にはなったが、それでも鶴丸国永は人生という不純物まみれの塊が大好物だった。だからこそ、次に出会うならどんな人生が好ましいのか、真剣に考えてみることにした。
なるべくなら、自分が居ないものがいい。けれどもそれでは見れない。観れない。困ったものだ。ならばなるべく自身の意志が通らないものがいい。例えば自身も不確定に晒されるようなものならなおいい。不確定が重なり、重なり、重なり、重なって、人が踏み荒らした糸のように醜く絡み合うぐらいが良い。主人公はそれに踊らされるのが良い。例えば糸で吊られた人形のようであればなお良い。けれども痛がらぬ人はただの人形であるから、それではつまらない。あくまでも人形のようである人間が好ましい。不運はうんと不運がいい。踏みつけられた糸が黒く汚れて誰のものであるかわからなくなるぐらい、どろどろとした物がよい。しかしそれで紅茶の味が落ちても本末転倒だ。味は良いほうがいい。だからこそ、主人公はその不幸を愛さず、快楽に感じず、けれども人形のように無痛であってはならない。しっかりと湯に味がつくように、人として貪欲であらねばならない。二杯目を続けられるように、途中で生きる事を諦めてはならない。そうして、エスコート下手な不幸と踊ってはならない。
ここまで並べれば理想のものに出会えるだろうか。例えば末文を楽しみにできるだろうか。主人公は果たして幸せに暮らすのか、あるいは、あるいは。
鶴丸国永はにんまりと笑った。丁度お呼びが掛かったのだ。妙に歪で、妙に力強く、妙に簡素で、妙に透明で、妙に純粋で、それでいて、妙にどす黒く重い、なにか。それは鶴丸の意志とは裏腹に鶴丸の腕を強引に掴んだ。いや、元より鶴丸に抵抗するつもりはなかった。呼ばれることを拒否した事はないが、大抵はこういう場合、まず先にお伺いがくるものである。申す申す白く美しき太刀の子、鶴丸国永様。とこうして私の所に降りては来ませんかという、勧誘がくるのだ。
今回はどうだ。まるで物扱いだ。小さな子どもがお気に入りの玩具を鷲掴みにするような、雑で、気遣いの一つもまるでないような歓迎。こんな手荒な勧誘は始めてた。けれども、嗚呼、そうか。初めてか。鶴丸はその歓迎が自身にとっての不確定要素だと知れば、余計に喜ばしい気分になった。不確定要素の向こう側は、無だ。なにもない。ただなにもない。誰も知らない世界。複雑に分岐した未来。選択肢。嗚呼、愛おしい、愛おしい、道のり。
さあ人の子よ。人の子よ。お前の人生はどんな味がするんだろうか。お前の人生の末文は、一体どちらだろうか。そうしてその文章を、お前はどのようにして飾るのだろうか。幸福でもよい。不幸でもよい。けれどもお前は、それをどう受け取り、誰と踊るのだろうか。途中で踊ることを諦めてしまうだろうか。不幸を愛してしまうだろうか。不幸から身を守ってしまうだろうか。お前はそれを悔やむだろうか。お前はそれを悲しむだろうか。なんでもいい。なんだっていい。俺が知らぬ結末であれば。俺の知らぬ過程であれば。俺の意志でない人生であれば、なんだっていい。くだらなくても、差し当たりがなくても、突拍子がなくても、それがお前が選んだ選択肢だというのならば、なんだって愉快である。俺が知らぬ未来を不安がるお前が、最高に愉快である。
さあ。俺の名前を呼べ。人の子。
そうすれば俺は、君の望む力になろうぞ。
Solomon Grundy,
ソロモン・グランディ
Born on Monday,
月曜日に生まれた
Christened on Tuesday,
火曜日に洗礼を受け
Married on Wednesday,
水曜日に嫁をもらい
Took ill on Thursday,
木曜日に病気になった
Worse on Friday,
金曜日に病気が悪くなり
Died on Saturday,
土曜日に死んだ
Buried on Sunday:
日曜日には埋められて
This is the end
ソロモン・グランディは
Of Solomon Grundy.
一巻の終わり
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