星屑へのエシャペ-1

 薬研藤四郎はこの場所で一日に何度も、何度も自分は一体何かと問うた。その度に自分は刀という名の武器であると答えた。幾度となくその問答を繰り返し、飽くほど奥歯で噛み砕いては飲み込んだ。舌の上がざらつくまで言葉を飲み込んでは息を吐いた。そうしなければ、薬研藤四郎は自分が何ものなのかもさっぱり分からなくなりそうだった。


 口の中で自分に言い聞かせるような言葉と共に砂粒が混ざる。舌先が空想ではなく、ざらりとした砂粒を認識して、唾と共に吐き出した。異物。それは嘘紛れもなく。薬研は目の前の倒れ切った敵の姿をただ見下ろしていた。動かない巨木のような身体は、つい先ほどまでの威勢は一体何処へ行ってしまったのだろう。まるでぜんまいを巻忘れた人形のように、指先のひとつも動かない。威勢よく吠えていたあの大声すらも、嘘のようだ。一体この大きな体がいつ自分の隙をついてくるものかと思い、ぴんと糸を張るようにして意識を保っているというのに、この木偶の棒はその思いすら裏切ってしまった。それはきっと数十分、否、それにも満たないかもしれない。未だ人の体に慣れない薬研ですら、まるで花を手折るようにぱきりと音を立てて壊してしまった。敵は二人。小さな短刀が二本だけだ。ただ、それだけだった。

 立ち上がってくるべきだ。これは、自分に向かって。ただこの首を締めんとして、ただこの頭を割らんとして、自分にまっすぐに向かってくるべきなのだ。そうでなければ自分は刀を振るえない。そうでなければ、自分は一体どうやって刀を振るえばいいのだろう。薬研はその時にはっきりと感じた。終わってしまったのだ。あの空間から必死に、搾り取るようにして漸く見つけた、自分という存在の証明が。


「これで最後だろうか」


 一期一振の言葉に加州清光がくありと欠伸を落とす。


「そうであって欲しいけどね。俺もう汚れるのいやだし」

「ふうむ。しかし残念だが一匹、逃げゆく姿が見えたぞ」


 鶴丸国永の言葉に薬研は思わず瞳を丸めた。


「逃げゆく?」

「嗚呼、太刀だったか、いや短刀だったかな……ふらりと逃げられてしまったんだ。すぐに追おうとしたんだが、他のやつらに阻まれてしまって」


 呑気にそう言い放った鶴丸の頬を、そのまま殴ってやりたかった。何をやっているんだ。何を呑気に言っているんだ。何を平然と存在しているのだ。そんな感情を握り締めるようにして指先に力を込めた。そうだ。敵がいる。敵がまだいる。それでいい。それでいいじゃないか。


「じゃあ、すぐに追うべきだろう。逃げ果せようとしたのなら、敵部隊の頭である可能性も高い。頭が潰れねば、部隊はまたすぐに違う形で生まれるだろうさ。それでは今回の討伐の意味がない」


 薬研はその時、至極真っ当な事を言ったつもりであった。勿論そうだろうと誰もが声を揃える筈であった。薬研藤四郎の中では。それが当たり前の事だと思っていた。思い込んでいたのかもしれない。けれども、鶴丸が冷めた眼で目配せすれば、加州は面倒くさそうにため息を吐いた。


「俺は反対。もう出陣してから随分時間が経ってる。向こうとこっちじゃ時間の進み方が違うって言っても、そろそろ帰らないと主だって心配する」

「……お前、何言ってるんだ?」


 主のために、主のために。薬研は頭を殴られたような衝撃に狩られた。その主の為に任務を遂行してるんじゃないのか。主の為の任務なのではないのか。任務とは何だ。歴史を変える時間遡行軍の部隊の殲滅。殲滅だ。一本の刀も残さずに抹消する事。けれども今の状況は。この状況はなんだ。刀が一本消えた。敵部隊の部隊長とも見える刀が一本どこかへと消えた。消息を絶った。逃げ果せた。それを、追わない。それを負わない。主の為に。主の為とは、一体なんだ。こいつは何を言っているんだ。こいつは何を、口にしているんだ。

 胡乱げな瞳で薬研を睨みつけた瞳に、思わず薬研はそのまま両腕を加州の首へと伸ばそうとして、腕が浮いた。指先に力が篭る。このまま柄を握るようにして、花を折るようにして、その喉から音が生まれぬようにしてやりたい。けれど後ろから羽交い締めするように持ち上げられた肩は加州の首に届く事はなく、加州は髪の束に絡めていた指先をするりと抜いた。


「……あーあ。残念、後一歩だったのに」


 細めた瞳の向こうに光はない。離せと抵抗する薬研の両腕を固定しながら、燭台切は咎めるようにして言葉の端を強めた。


「加州君、今僕が止めなかったら、」

「いーじゃん。血の気が盛んな新人の、腕の一本ぐらい。敵のせいで落ちたって言ったってバレないよ」

「加州君」

「もしそうなってたとしても、こんな事で主は俺を怒らない。そうでしょ」

「主は、こんな事で喜びもしないんじゃないかい」

「……知ったかぶり」

「そりゃあどうも」


 舌の先がぴりと痺れるような会話の中で、思い出したように荒い呼吸を落とした薬研を嗜めるようにして燭台切光忠は薬研の腕を拘束する手に力を込めた。


「薬研君も、落ち着いて。君が言っている事はよく分かるけど、ここですぐ追った所でどうしようもないんだよ」

「どうしようもないわけあるかッ……!」

「現に、鶴さんだって敵を最後まで追えてたわけじゃない。どこに逃げたか分からない敵を闇雲に追うことは得策ではないし、できないよ。……特に僕らの本丸ではね」

「……どういう意味だ」


 刀を抱き抱えるようにして話を伺っていた鶴丸が、それに沿い遂げるようにしてくてりと首を傾げてみせた。


「簡単な話さ、うちの主は弱いのさ」


 咎めるようにして尻を鞘で殴られた鶴丸がいてぇと小さく悲鳴を上げた。見かねた一期一振が小さく咳き込めば、加州は一度それを不機嫌そうな瞳で見やり、やがて腕を組んで顔を逸らした。大袈裟に尻をさする鶴丸の姿を薬研が凝視していれば、鶴丸はまるで子供のように首を大袈裟に傾けた。


「単純に、霊力がないのさ。うちは何故こんなに刀が少ないのか。何故長時間出陣に出ないのか。何故、何故、何故。簡単な事だ。それを実行するだけの力がうちの主様にはそもそも存在しないのさ。沢山の刀を一気に抱える力も。それを過去に送り出すだけの力もない。別に君が追いたいなら、敵を追っても構わないさ。君が敵に追いつく前に、きっと君自身が自分の身体を保てなくなるだろうけれどもね」

「しかし、アイツだって仮にも審神者なのだろう」

「仮にも審神者だ。まあ、仮すぎる審神者だ。それ程うちの主様は欠陥品でね。大した力は殆どないし、本家本元の審神者様のような仰々しい力もないのさ。霊力なんて一般人に多少毛が生えたぐらいだ」

「じゃあ、なんで」

「……なんでだと、思うかね?」


 薬研は釣られて口を開いたが、締め付けられた喉からは何一つ言葉は出てこなかった。


 あの少女は見目からしてごく普通の人間だった。仰々しい外見も持たず、貫禄のひとつもない。まるで人見知りするようにして目が合わず、これからよろしくという言葉も微かに震えているような様は、まるで子供だった。さしたる霊力を持つわけでもない。戦事に長けているわけでもない。他に特別な力があるわけでもない。人の上に立つような人でもない。自信に満ち溢れる人でもない。カリスマ性がある人でもない。人と並べて人に劣るような人だった。それでも周りには彼女を慕う刀がたったの数振り。けれど、それが、何故。


 薬研の言葉よりも先に、一期一振が懐よりひとつの鍵を取り出した。少し錆のついた、男性の指には小さすぎる程の鍵。金の美しいタッセルに明らかに似合わない使い古された鍵を、一期一振は傍にある適当な扉に差し込んだ。アーチが美しい、けれども鍵と同じく古びた扉だった。


「無駄話はそこまで。本日は帰還とします。今は、後追いができるような状態ではありません」


 薬研がでも、と言葉を紡ぐよりも先に、一期一振は鍵を回した。がちゃんと音が重々しく響いた後、薬研達の周りには文字通り、何もなくなった。建物も、今にも降り出しそうな空模様も、砂利も、土埃も、靴の跡も、ただの塵のひとつも、文字通り、なにも。ただ真っ白で大きなボックスの中に閉じ込められてしまったようだった。世界が急に変化した事に置いていかれたようにして、一期一振が開けるその扉だけが不可思議にその場に残っていた。時間までも切り取られているのだろう、薬研は先ほどまで感じていた足の痛みが今はさっぱりと消えている事に気がついた。


「さあ帰るぞ。俺たちの本丸に、だ」


 鶴丸が薬研の背中を軽く叩く。加州は興味が無さそうに欠伸を溢し、燭台切は一瞬薬研に視線をやったあと、頭を下げながら窮屈そうにその扉を潜った。

 薬研は意味もなく、その一部始終を見ていた。扉の向こうに見覚えのある壁が見える。階段が見える。薬研はそこがあの本丸と繋がっているという事を本能的に理解した。けれども、薬研はあの本丸に帰るよりもずっと、この時間が止まってしまった白い箱の中に居る方がずっと落ち着けるような気がした。ずっと自分があるべき場所のように思う。此処に居たいとも思った。あんな場所にいるよりもずっといいだろうと思った。何故あんな場所に帰らなければならないのかとも、思った。何故あの場所に呼ばれたのだろうとも。


「薬研藤四郎、入りなさい」


 それを察するようにして、一期一振が静かに律する声が響いた。


***


「おや皆様、おかえりなさいませ。無事で何より」


 白いトレイに白いカップとシュガーポット、蜂蜜の入った小瓶を乗せながら、小狐丸は視線だけを軽く投げた。


「……貴方がその様子ですと、あの子は休んでいるのですか」

「然様。ぐっすりと。よく寝ておられます。私はぬしさまが起きられる前にお飲み物の準備をと」


 そうですか、と一期一振が短く返事をする頃には扉は閉まっていた。どこにも通じていて、どこにも通じていない扉は、一期一振の持つ鍵によって施錠された。薬研はそれをただなんとなく見ていた。


「小狐丸は主を寝かせつけるのが上手いよなー。秘訣でもあるの?」

「少しお話をしているだけですよ。それが心地よいのでしょう。私と話している時は、いつもぬしさまは途中でうとうとされる」

「へぇ、いつもねぇ。俺の時は全然眠ってなんかくれないけど」

「それは加州さんとお話するのを、ぬしさまは心待ちにしているからでしょう。私とお話される時も、ぬしさまは貴方の話をよくなさる」

「ふぅん。そっか。じゃあいっか」


 満足げに踵を鳴らしたヒールの音に、薬研はふと我に戻った。閉鎖的な本丸の中は出陣に出た時と変わらない。曖昧に人工的な光が窓ガラス越しに部屋の中へと注ぎ込んで妙によそよそしい。小さな本丸の中心部、沢山の紙が貼られたその前に一期一振が立っていた。恐らく、政府からの書類や戦績の類を壁に貼り付けているものなのだろう。薬研は一度審神者のいる部屋に訪れた事があるが、あの部屋には、何もなかった。ただ子供をあやすようなぬいぐるみや、飾り物があるばかりで、審神者としての責務を果たすような業務的なものは何一つ存在していなかった。


 一期一振がそのうちの一枚に軽く指先を伸ばす。白い手袋を身につけたまま、日に焼けた紙の一枚を吟味するようにして眺めた後、一期一振はそれを壁から剥がし、そのまま握り潰した。紙がぱりぱりと音をたててその手袋の中で皺になっていく。やがて小さな紙屑になってもまだ、それは一期一振の手の中に握り締められていた。その時に初めて、薬研藤四郎の中でひとつの疑問に答えが出る。


 審神者の部屋に審神者としての責務を果たす道具が何一つ存在していなかった理由。それは必要がないからだ。審神者が審神者としての責務を果たす必要がないから。この本丸を回す要、審神者として果たすべき責務、義務、任務、責任。それら全てを代わりにこなしているのが、この一期一振なのだろう。初鍛刀、この本丸を最も初期から知る刀。この刀が審神者から審神者たるべくある責務を取り上げた。もしくは、審神者がこの刀に押し付けたのかもしれない。審神者の部屋にこれらがなかったのは、一期一振が管理しやすくする為。一期一振が管理する為。部屋から出たがりもしない審神者が、これらの書類がどうなっているかなんて、恐らく知りもしないのだろう。


 仮すぎる審神者、薬研はそんな言葉を思い出した。


「あんたが、それをやっているのか」


 無意識に溢れた言葉に、一期一振は緩やかに振り返った。


「そうだよ」

「それはアイツがするべき事だろう」

「あの子がする必要はなにもない」

「何故アンタが代わりにやっている」

「私はあの子の兄だから」

「アイツがアンタに押し付けたのか」

「いいや、私が勝手にやっている」

「何故」

「あの子がする必要がないからさ」


 眉間に深く皺が寄った。話にならない。話ができる気がしない。何故ここまで話が通じないのかも分からない。審神者の責務を刀が引き受ける。これ自体はさして珍しい事でもないのだろう。恐らく。刀が主を気遣い、仕事を任される。何もおかしな事はない。人の兄を名乗る。これも、これも、時と場合によれば珍しい事でもないかもしれない。けれどもそれは、小さな子供を相手にしていたり、認知が追いつかなくなった老人に慰めのように施すものだ。


 じゃあ、なんだ。


 この刀がそこまでして審神者を擁護する理由。この刀が異質な程空っぽな理由。擁護される理由。霊力も無く。審神者としての能力も無い。力は粗末。経験も無い。語り草になる過去も無い。異常だ。それは殆ど異常であると、薬研は明確に確信した。本能で微かに感じていたそれを、今では五感ではっきりと理解するようにして。


「お前はアイツの兄ではない。一期一振」


 薬研の言葉に一期は静かに瞬きを落とした。


「いいや、私はあの子の兄だ」

「じゃあ仮に、仮に兄であるとしてだ。兄だからと言って、アイツの全てをやってやるのは愛情じゃないだろう。アンタがやればやるだけ、世話を焼けば焼くだけ、アイツはどんどん駄目になる。そうじゃないのか。審神者として成長しないのも、アンタがその役目を奪ってしまっているからだろう。違うのか」


 一期はもう一度瞬きを落とした。ガラス玉のようにも似た瞳を、瞼の裏に書かれた答えを探すようにして隠す。それが余りにも虚無的であると感じたのは、その一期一振の指先から丸まった紙がこぼれ落ちたからかもしれない。一期は、それにまるで気づいていないようだった。


「だから、」

「……?」

「だから、なんだと言うんだい」

「……は」

「必要がない事だ。現に私が責務をこなす事で、この本丸は滞りなく回っている。あの子もそれを良しとしている。勿論、あの子がそれをこなす事もありはするけど、あの子は弱い。身体も、そう強くない。誰かが行えば良いことだ。それならば、兄である私が行えばいい。そうだろう」


 穏やかに零される声は、まるで優しい兄のようだった。その声色がこの本丸の異常な茶番を、より生々しく気持ち悪い物にしていた。鳥肌が立つ。生々しく零される言葉は、嘘偽りのなく、その虚無にも近い表情から生まれていた。


「それじゃあ意味がないだろ、本人が成長しない。今回の任務だってそうだ。霊力の事だって、審神者としての心持ちだってそうだ。本人があの調子で、今と同じような環境で羊水に浸かっていては、何も変わりはしない。なんの変化もない。時として本人が望まぬ事であれ、それをさせて見守るのが、正しい兄というものではないのか。一期一振」

「……」


 刀として生を受けた自分が、兄を語るのも可笑しな話だった。けれども、けれどもこれは、この場所は、余りにも歪だ。刀として生きてきた。その中で見てきた事もある。けれどもこの空間は、どこか宙に浮いていて、どこかあやふやで、どこも、正しくない。白い蛇が揺蕩うような、生暖かい空気がそこら中を締めていて、皆それに溺れているようだ。誰も気がつかない。この空気自体が毒なのだと。


 一期一振は優しく微笑んだ。


「正しくなければいけないのか」


 その言葉に、薬研は思わず息が詰まった。


「あの子はもう十分頑張った。あの子はもう十分努力した。あの子はもう十分一人で生きた。あの子はもう十分成長しようとした。それに甘えるなと鞭打つのが正しい兄であるというのか」

「何を、」

「同じような環境で過ごせばいい。同じような空間にいればいい。同じような毎日でいい。同じような日々でいい。何も変わりはしなくていい。何も変化しなくていい。正しくとも、正しくなくとも。それが普遍。それが不変。揺り篭のあるべき姿。安らかな安定。この本丸の意思。あの子はそれを望んでいる」


 酷く平坦で、酷く淡白な声はしかりと薬研を見つめて言った。


「本人が望んでいれば、これでいいと?」

「勿論」


 薬研は感情に任せて腕を伸ばした。今度こそその腕は真っ直ぐに伸び、一期一振の襟元を強引に掴んだ。指先が震えて布を歪ませる。ぶつりと何かが切れた音と共に、薬研は噛み付くように言葉を吐いた。


「それが本当にあの人間の為になると思っているのか。お前が甘やかせば甘やかす分、アイツはいつか立てなくなるぞ。この本丸が揺り篭であればあるほど、アイツはここに囚われる。それは枷と一緒だ。歩き方を忘れさせる。そうしていつか本当に一人になった時、この揺り篭の存在と記憶がアイツを殺す。人の時間は有限だ。俺達とは違う。お前が止めたこの時間は、未来で必ずアイツを殺すだろう。それでもお前は、アイツの時間を揺り篭に留めて置くというのか」


 静かな怒りのようだった。声を震わせ、威嚇するように吐き出した言葉と共に襟を掴む指先の力を強める。薬研自身、何故怒っているのか分からなかった。ただ、どうにも理不尽で、どうにも許せなく思った。可哀想だとは思わない。審神者の自業自得であるとすら思う。けれども、このままで良い筈がないと薬研は確信していた。

 薬研はこの時初めて、自分が人間の事を好いているのだと思った。ただ単純に刀として、人が一人、このまま潰れて消えてしまうのが居た堪れなかった。


「なにをしているの」


 その声に二人が揃って顔を向けた。顔を青白く染めた少女の表情は余りにも酷く、まるで世界の終わりでも見つけてしまったような顔だった。すぐにその震える唇から悲鳴をあげそうでもあったし、すぐにその震える指先でどこかを引っ掻いてしまいそうだった。くすんだ灰を被ったような瞳が、今はまるでその青色が美しく見えるような気すらした。丸く見開いた瞳にははっきりと一期と薬研の姿が映っていた。


「なにを、しているの」


 震える唇から溢れた言葉も震えていた。薬研はそれを聞いて静かに一期の襟元から手を離した。冷めてしまったという感情もあった。けれどもそれよりもずっと、頭は妙に冷静だった。目の前の空っぽの兄弟よりはずっと、そうだ、この少女を捕まえたほうがずっと話ができそうだと、今になって思った。


「この本丸は異常だ」


 薬研の言葉に少女の瞳が余計に大きくなった。小さく笑うような音が聞こえたような気がしたが、薬研はそれに目をくれなかった。


「初鍛刀の一期一振も、過度にアンタを擁護する刀も、審神者として仕事をしないアンタも、現世に帰りもしないアンタも、部屋に篭もりっぱなしなのもそうだ。人としても、人と刀の関係性も。任務を最後まで熟さないのも。なにもかも。この場所は異常だ。アンタだって理解はしてるんだろう。覚えはあるんだろう。何故こんな空間に甘えている。何故お前はこれを容認している」


 少女は漸く一度ぱちりと瞬きを落とした。


「わ、わたしは、」

「……ぬしさま」

「コイツ以外は黙ってろよ」


 薬研が言い張った言葉が静かに溶けた。


「俺が今話しているのは、コイツだ」


 少女は何度か震える唇で何かを紡ごうとして、閉じた。瞳が忙しなく動き、何かを探すようにして彷徨う。震える指先を隠そうとして重ね、きつく握り締めていたが、震えているのは誰が見ても明らかだった。動揺、不安、そんな物ではない。それはまるで発作だと、薬研は思った。


「……貴方は、変だと、思う?」


 少女が絞り出した声は、答えではなく、問いだった。囁かで掠れた問い。まるで壊れたレコードのように聞き取りづらく、錆びた声。薬研は一瞬眉を潜めたが、会話ができただけ良いと思ったのだろう。一度軽く頷いた。少女はそれを前髪の隙間からのぞき見た。のぞき見ただけで、真似するように頷いた。ただ一度、操られる人形のように不自然に頭が揺れた。眠りこけた時の、一瞬の動きにも似ている。薬研はそれに確かに違和感を感じた、だから右手を思わず伸ばし、それと同時に少女が顔を上げた。あまりにも平然と、顔を上げた。


「わたし、帰る、わ」


 噛み切るような言葉に、少女の腕を掴んだのは加州だった。まるで真似るように一度口を開け、言葉を噛み砕くように唇が震え、けれども飲み込めずに何かを指先越しに少女に伝えようとしているようだった。


「……すこしだけ、帰る、わ」


 少女はもう一度言い直すと、ぎこちないながらも加州の手を慰めるようにして軽く撫でた。


「答えになってねぇよ」


 瞳を細める薬研に、少女は静かに瞼を緩く落とした。


「甘えている、自覚はあるの。だから、帰るわ。少しだけ、帰るわ。そうすれば少し、落ち着いて、貴方と話もできるかもしれない。貴方がこれを、異常だと思うならば、一度、……互いに落ち着くべき、だわ」


 瞬きが何度か落ちる間、薬研は少女と一度も視線が合わない事をぼんやりと感じていた。まるで瞼に重りでもついているように、まるで眠気を我慢する子供のように。曖昧な瞬きはまるで世界の全てを認めては居なかった。


「俺は、アンタが人間として生きていく上でも、こういう異常な空間には慣れない方がいいと思う。審神者として生きるなら尚更。キツく言ってるように聞こえるかもしれないが、悪い事は言ってない筈だ」

「……ごめんなさい、迷惑を、かけてごめんなさい」


 小さく紡いだ言葉に震えはなかった。代わりに一度だけ揺れた頭が、お辞儀である事に薬研は少し間をおいてから気がついた。


「兄さま……一期。鍵を、お願いします」


 一期は静かに頭を下げた後、懐から鍵を取り出した。出陣の際に出したそれと同じものを、同じ扉に突き立てれば、少女はのろのろとした足取りでそれに向かっていく。


「ちゃんと帰ってくるんだよね」


 加州の釘を刺すような言葉に、少女は気が抜けるように笑った。


「たまには戻らないと、心配するから」

「誰が」


 加州の言葉に、少女は気が抜けたように笑った。


「私の部屋にいる、うさぎのぬいぐるみ。こっちに持ってくるのを忘れちゃっていたの。小さな頃からのお友達だから、連れて帰ってくるわ」

「……そ、じゃあ、俺はここで待ってるからね」


 うん、と短く零す少女の顔は、まるで世界の終わりのようだった。交わす言葉も変に仰々しくて、薬研は頭の血液が流れる音が妙によく聞こえていた。馬鹿馬鹿しい。ただ現世に帰るだけだ。数時間、数日、もし帰ってこなくなったとしても人としてそれが正しいと感じたならばそれもありだろうと、薬研は思っていた。あからさまにおかしい世界に居るよりはずっと健全だ。けれども仰々しい別れ話をする少女と初期刀以外は、どこか淡白にそのやりとりを見つめていた。ぼんやりとしているようにも見えるし、事を理解していないようにも見える。見守っているといえば聞こえはいいが、その膜に包まれるような妙な感覚が違和感の末端だったが、薬研はそれに知らぬふりをした。


「私が居ない時は、出陣や、本丸の事はなにもしなくていいから。たまにはゆっくりとしていて、ください。みんなにもそういって。きっとみんな窮屈に思っているだろうから。たまには、こういう時も、必要だわ」


 少女が階段を一歩下る。一期一振は自然と顔を俯かせた。


「……伝えましょう」


 少女が階段を一歩下る。自信が無さそうに笑った。


「すぐに帰ってきてしまったらごめんなさい。向こうとこっちの時間は違うから、でも、向こうでやることもきっとあるから、そんなにすぐでは、ないかもしれないけれど」


 少女が階段を一歩下る。一期一振は指先で鍵の感覚を確かめた。


「……すぐに、帰ってきても構わないよ。ここはそういう場所なのだから」


 階段を一歩下る。少女は思わず頭を上げた。


「だから、私はここに居るのだろう」


 瞬きがひとつ落ちた。白く膜を張るような空間の中、生暖かい空気。嗚呼これは羊水だ。柔らかく存在する事を助けられている。与えられている。ただこの場に存在する事を只管に許されている。


「……そうだわ、兄さま」


 少女が瞳を歪めて笑う事に、一期はただ静かに頭を下げた。静かに鍵穴に差し込まれた小さな鍵は音をたてて錠を開ける。扉が静かに開かれる先に見えた、微かな景色は薬研が見た事のない場所だった。建物の中だろうか。本丸と地続きになるようにして踊り場のような場所があるのが見えたが、少女がすぐに閉めてしまったから、見えなかった。それでも一瞬、ただ一瞬、扉を閉める前に少女と視線が交わった気がした。それもすぐにちぎれてしまったが。

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