夜硝子のフォンデュ
扉が閉まると夜が来る。燭台切光忠はそれを知っていた。
人工的な白で埋め尽くされた世界の中で、象徴とも言える少女が消えると、この本丸には夜が来る。人形は死んだように倒れ、神様は眠りにつき、亡霊はいつまでも佇み続ける。そんな夜だ。
かちゃりと扉が閉じる音が聞こえる。それはまるで傍で響いたように鮮明で、飾り空はくるりと夜のカーテンを引いた。燭台切もこの世界の住人だ。住人だからか、遠くで閉じた筈の扉が確かに主人を吐き出した事を、確かに感じていた。隻眼の瞳で捉えなくとも、この場所が眠りについた事をはっきりと理解できるのだ。燭台切は大きくため息を吐く。肩が緩く落ちた。戦支度と刀に触れていた指先が手持ち無沙汰だ。
暗がりには灯りが必要である。どの世界でも、それは絵本の中ですら正しく常識である。この世界もそれを理解するようにしてランプに火を灯した。ほつりほつりと飛ぶように置かれたランプが淡く温度を秘めるのと同時に、燭台切は頭を傾けながら落胆のため息を吐く。恐らくもう、暫くは出陣などの事態にはならないだろう。1日、二日、数日、世界の何処にも存在しないこの場所が、果たして少女の居る世界と同じ時間を刻んでいるのかは定かではないが、主人が居ても滅多に出陣なんて騒ぎにはならないのだ。主人が居なければ、当然そうなる筈もない。燭台切は誰もいない部屋の中でセットされた頭を軽く掻いた後、踵で二度床を蹴った。
瞬きするよりも素早く、まるで小説の一頁を捲るように、燭台切の装いは変わっていた。首元まで着込んだ戦闘服の見るも形なく、代わりにゆったりとした和装姿で立っていた。踵を鳴らした靴すら、今ではその美しい輝きを放つ事無く、黒色の鞘に収められた刀だけが唯一、燭台切の手元から離れない装飾品であった。
手持ち無沙汰だ。どうにも。自身の自慢の得物を振るう事も出来なければ、この空間から開放されるわけでもない。一時的な主人不在の世界はこの空間にある種の変化を齎すが、燭台切はそれを好ましく思うことは無かった。そもそも、好ましく思う輩など、少女を含んでも決して居はしないのだけれども。
燭台切は憂さ晴らしさに、足元で光るランプを鞘の頭で叩き潰した。
ぱき、と硝子が噛み潰される音がする。炎が一瞬燃え上がったが、それは鞘を軽く撫でるだけで、煤の一つも残さなかった。炎のように見えたものは、すぐに成りを潜めて消え去った。燭台切はそれを確認してから、もう一度柄の頭でそれを噛み砕いた。
「――あのさあ」
階段から頭と瞳だけを軽く覗かせた加州が、じろりと燭台切を見上げた。燭台切は返事もせず、それを黙って見下ろす。
「主が居なくなってアンタが豹変するのはどーでもいいんだけど。物に当たりすぎるのやめてくれる? 主が大事にしてたぬいぐるみ、叩き切ったのアンタでしょ」
「記憶に無いな」
「嘘ばっか」
「それにこの本丸の物は例え壊れてしまったとしても、彼女が帰ってくれば全て元通りの筈だ。そうだろう」
「そうね、俺達が壊さない限りはね」
加州の言葉に、燭台切は瞬きを落とした。
「俺達は刀の神様だよ。俺達の力が強く篭もれば、幾ら主が作った世界の物でも元通りにはならない。たまに元に戻らないのが一、二個あるんだよ。壊してるのアンタでしょ。帰ってきて主が悲しむんだから、そういう事するのやめてよね」
「……肝に銘じておくね」
加州はじぃと、貼り付けられた笑顔を眺めてから、ふいと顔を反らした。
「嘘つき、猫被り、なんでアンタが主の刀なんだか」
吐き捨てるようにして溢れた言葉に返事をする物はいない。代わりに階段を降りる加州の足音と、ランプがもう一つ割れる音がするだけだった。
粉々になる硝子は美しいと思う。けれど、それだけだ。星のようになった硝子に執着を覚える事も無いし、覚えようとも思わない。叩き割るのにランプを選ぶのはただ割れた時の音が美しくて耳障りが良いからだ。それ以上でも、それ以下でもない。それを執拗に壊したがる事に理由はない。
でもそうだ、試しにどうだろう。別の物を壊してみては。
燭台切は気晴らしに近くにあった額縁を蹴り飛ばした。がだんと音を立てて木製の額縁は不細工に跳ねた。軽く埃を散らしながら一度だけ角を床に擦り付け、そこを軽く欠けさせてから、時間を掛けて倒れた。美しい装飾がなされた表面を下にして、裏にあるのは木製の質素な面だけだ。燭台切はそれを思い切り踏んだ。ばき、と音がする。額縁に罅が入ったらしい。その後も何度か踏んだが、ゴムを踏みつけているような感覚ばかりでどうもつまらない。燭台切はもう一度それを蹴り上げて、花瓶を割った。
「はあ、これは、散々な状態だなあ」
階段から同じくひょこりと頭を覗かせた鶴丸が無責任に言い放つ。燭台切は鼻で笑った。
「嘘つき。もっと酷いトコ見たことある癖に」
「嗚呼、ここら一帯が硝子の破片で埋まった時だろう。主が帰った時には素知らぬ顔して全部が元通りになったのも愉快だったが、いやあ、あれは見物だったなあ。燭台切ではなく硝子叩にでも改名するべきだと思った」
「やめてよ、品がない」
「しかしそういう行動をしてるのはお前だ」
「憂さ晴らしだよ、ストレス発散。それ以外の理由はないから」
憂さ晴らしなあ、と間延びするような声が落ちる。鶴丸は少し軋む階段を登りきり、室内の現状におおと形だけ感嘆するような声を上げた。割れたランプを軽く飛び越し、粉々になった花瓶を見下ろす。燭台切はつまらなさそうにソファに腰掛けた。
「破壊衝動ねぇ」
「なにさ」
「いんや、いい趣味してる」
「褒め言葉だと思っとくよ」
ソファからだらりと零した両手は、どう見ても昼間の燭台切光忠とは似ても似つかない。燭台切光忠といえば、この本丸でも珍しい優等生だ。少女もよく懐き、また少女の面倒もよく見る。殆ど、仕事の面で言えば一期一振が全てを管理していたし、燭台切が少女の面倒を見たのはあくまでも、少女が求めた時だけだったが、それでも燭台切光忠はまともだった。どこにも依存せず、どこにも感化されず、ある種の正常であった。
と、鶴丸は記憶している。あくまでも、昼間の顔の話であるが。
「お前はあの子が嫌いなんだったか」
「そうだよ」
「フーン」
「……何だい、その顔」
「いいや、別に。その割には、あの子の前ではいい顔をする」
まあね、と燭台切は息を吐いた。
「お陰で初期刀様には嫌われてる」
「はは、アイツは大抵誰も彼も嫌いだ。大好きな主様以外はな」
「全く酷い言われようだよ。嘘つき、猫被り……」
ソファに重く預けた身体の懐を探る。取り出した小箱の底をとんとんと叩けば、迫り上がるのは一本の煙草。薄い唇がそれを喰み、適当なマッチ箱で火をつける。一瞬金色の瞳がソファの下に流れ、指先はマッチ棒の先端に火を灯したまま、手放した。灰皿代わりにマッチ棒は古書の上へと落ち、瞬く間に炎がその本の表紙を舐めたが、それもすぐ、ぱたりと消えた。
「最初は自分の事を言ってるのかと」
「おいおい火気は厳禁だぞ、この場所が壊れたとなれば、俺らの大事な主様が泣いてしまう。火事なんて最も悲惨さ。何も残らない」
「構わないさ。これだけ厳重にこの場所が崩壊しないよう、その主様は神経質に努められていらっしゃる。この場所では、本の一つも燃えやしない。そうでなければ今頃この場所は存在すらもしていない」
「まぁそれもそうだ」
鶴丸はくありと欠伸を零した。割れた花瓶、割れた額縁を器用に避けながら、自分もとスツールの上に腰を下ろす。
「――ところで、あの新人はどうしたの」
「んっ?」
「恍けても駄目だよ。偉く気に入って手を出してたじゃないか。鶴丸国永」
「んん? んー、そうだなあ」
鶴丸はスツールの上で胡座を組んで、にまにまと笑った。愉快そうに笑う癖に、なにひとつ楽しそうでない。どことなく胡散臭く、地に足の付かない刀は、首を軽く傾げながら口を軽く噤んだ。
「突きすぎただろうかなあ」
「突きすぎないことなんてあるの、君」
「いやあ、うん。あるさ。ある。ただ今回は、だって、なあ、久々の異端分子というか、随分活きが良かっただろう。だからなあ、まあ、うん、ちょっとこう、やったら、なあ。まあ、なんだ、……壊れてしまっただろうかなあ」
「……大体予想付いた」
ため息のように燭台切が大きく長く煙を吐き出した。大して形も作らない白い煙は、それすらも長く揺蕩う事を許されずに消えていく。燭台切は指先で燃え滓を落としながら、唇に煙草を咥えた。
「要は加州清光か一期一振が、一人増えたような感じなんでしょ」
「察しが良いな、話が早い」
「誰のせいなんだか」
「俺か」
「そうだよ」
白い煙が着物を割るようにして晒された燭台切の足を撫でた。鶴丸は静かに首を傾げ、その姿をぼんやりと眺めた。
「けれども、そう言うなら君も助け舟を出してやればよかったのに」
「僕が助け舟? 一体誰にさ」
「薬研藤四郎だ。可哀想に、同じ思想の先輩に助けてもらえなかった」
「……」
「そうだろう。お前も主お外に出て欲しい派だ。違うか?」
「何その派閥」
「分かりやすくていいだろう。メンバーはお前と、小狐丸と、元薬研藤四郎だ」
燭台切はふぅと煙を吐いた。
「どうでもいいさ、僕はあの子が好きではないから」
「どうでもいい割には、主の前ではいい顔をする」
「……」
「どうでもいい割には、表立ってこの場所の秩序を崩したがらないな?」
「何がいいたいんだよ。鶴丸国永」
細舞った瞳に、鶴丸は小さく笑った。黒い着流しだと様になるものだと茶化しながらも、言葉を続ける。指先が空中を泳げば、それに従うようにして金色の粉が線を引いた。
「簡単な事だ。あの子が嫌いならもっと幾らでも方法はある。顕現に応じないだとか、あの子と距離を取るだとか、あの子を殺してしまってもいいだろう。君の神としての利用価値に多少疑惑の目が向けられることもあるかもしれないが、なに。こんな辺鄙な場所の多少頭のイカレた少女だ。殺してしまった所で神様の名前に傷はつかないだろう。お前も莫迦ではない。それくらいは分かるだろう? 燭台切光忠」
鶴丸が空中で描くのは少女の絵。微かに残ったランプで淡く照らされる金の粉は、その少女に刀の一太刀を浴びせ、炎を浴びせ、やがて少女の絵は粉が散るようにして消えた。紙芝居のような戯れを、金の瞳は静かに見ていた。
「けれど君ときたら、あの子には良い顔をするし、この場所で起きたいざこざは仲裁すらしようとするじゃないか。あの子が本丸を出ていけば気晴らしだとここら辺一体を全部壊してしまうくせに。やっている事があべこべだ」
「何がいいたいのさ」
「本当に嫌っているなら、やり方は幾らでもあるだろうという話だ」
「僕を焚きつけようとしてるのかい?」
「いいや、俺はただ知るのが好きなだけさ」
ふ、と吐いた息に煙は乗らない。
「野次馬根性」
「もっと良い言い方をしてくれ」
燭台切は指先で煙草を軽く叩く。中途半端に落ちた呼吸と共に、煙が漏れた。
「別に、殺したい程憎んでいるわけでもない。気に食わないとは思うけれどね」
「その心は?」
「大層な物じゃない。僕は彼女のこの本丸の使い方が気に食わないだけさ。にこにこ嫌われまいと、下手な愛想を売ろうとするのも好きじゃないけど、……人は人としてあるべきなんだよ。この本丸の存在は、人である筈の存在を大きく歪めかねない。人が依存するべき場所ではない。人が使う分には構わないだろうけどね。彼女のアレは、この場所を使役しているとは言い難い。この場所は、そうあるべきではない」
「……思っていたよりも随分、平和的な考えだなあ」
ほかりと落ちた声に、燭台切は胡乱げな瞳を投げた。
「何処がだい」
「いんや、恐らく初期刀様や、初鍛刀様はそんな柔らかい考え持っちゃいないぜ。あいつらもこの場所に依存してる」
「一番強く引っ張られた人達だからね、そりゃあ、そうだろう」
「最悪、あいつらは主を殺すぞ」
煙草を咥えていた唇が軽く揺れた。鶴丸が愉快げに瞳を細めているのが見えるからこそ、燭台切は煙草の煙を深く吐いた。着流しから溢れた素足が、ソファの冷えた生地に触れる。
「その時は、生かすよ」
「へえ」
「気に食わないが、死ねと思っているわけではないからね」
「それは、燃えた自身と重ねているのか?」
「……」
「この本丸の、誰が味方になるとも分からぬぞ? 加州も、一期も、薬研も、三日月でさえ敵になるかもしれん。小狐丸も主が死を選べばそれに従うだろう。従順な奴らだ。それでもお前は、お前が気に食わないと嫌うあの少女を、この期に及んで生かすだの、助けると言うのかい?」
零された言葉に、燭台切は吐き捨てるようにして笑った。
「そういう選択が、気に食わないと言っているんだよ」
喉を締めるような笑い声を小さく落として、鶴丸は満足げに笑った。
「成る程。その考えは嫌いじゃないな」
「そりゃあ、どうも」
燭台切は吸いかけの煙草をそのまま床の上に落とした。何かに燃え移る音がする。周囲を炎が舐めたのだろう。一度花が咲く用に明るくなったが、その後、すぐに消えた。
I do not like thee,
僕はあなたが嫌いです
The reason why, I cannot tell;
何故かって理由はわかりません
But this I know, and know full well,
でもこれだけは確かです
I do not like thee,
僕はあなたが嫌いなのです
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