喪失とエカルテ

 それは白い部屋の中だった。所々草臥れた様子のある、けれども美しい部屋だった。青い壁紙を強引に上から塗りつぶしたような白い壁は、本丸で二番目に来た一期一振が見た時から既にその様だった。少女の部屋は、そうした少しばかり不思議な人工の白の上にあった。一度、初期刀に何気なく訪ねた事がある。何故このような色なのか。けれども話ははぐらかされるばかりで、的を得なかった。一期一振もそれ以降は強く聞こうとはしなかった。どのような理由であれ、もう既に白くなってしまったのならば、その根本を理解しようとした所で、どうしようもないと思った。

 部屋の中に散らばるのは、少女の私物だった。くまのぬいぐるみ。枯れぬ花束。いつ読み終えたのかも分からない本の山。それから、やわらかな四角いクッション。文字遊びの積み木と、瓶に詰まった草と花のテラリア。少女はこの部屋を散らかすのが好きだった。誰が片そうとしても、少し目を離せばいつもこの状態だ。否、好きだったというよりは、もしかすればそれは殆ど強迫観念に近いものだったのかもしれない。本丸に顕現してからこの方、この部屋が片付いている所を見た事がなかった。一度それを促した事はあったが、少女は始めて、一期一振のその言葉に否定を顕にした。後にも先にも、一期一振の言葉を否定したのは、その時が最後だった。その時でさえ、少女は後から密やかに泣いていたぐらいだった。

 この部屋は散らばった部屋でなければならなかった。少女にとって、この部屋は片付いた部屋であってはならなかったのだろう。一期一振には少なくとも、そう見えていた。理由はわからない。けれど、散らかった部屋でなければならないのなら、その根本を理解しようとした所で、どうしようもないと思った。


「……」


 手袋越しの手のひらで、ひくりと一瞬身体が震えたのが分かる。頭が微かに動き、少し丸くなるようにして顎を引く。抱き枕だとでも、思っているのだろうか。愛らしいぬいぐるみだと、夢の中で見ているのだろうか。少女が抱えたそれは、どうにも少女の理想には釣り合わず、白い部屋の中で確かに存在を顕にしていた。朱と金の細工。それは美しい刀だった。


「……目が覚めたかな」

 一期一振は静かに零した。それは殆ど確認に近い。確かに少女が瞼を持ち上げていない事を理解しながら、一期一振はそう優しく諭すように言った。睡眠を柔らかく阻害する声色に、少女は微睡みに沈みかけた瞼を重そうに持ち上げた。一度、二度と青灰色の瞳が見え隠れする。耐えようとする様が少しばかり覗いた後、微睡みに恋するように、少女は身体を丸めた。


「……、……いちご?」

 ふわりと重さなく浮いた言葉は、殆ど白昼夢のようだった。指先で瞼を擦り、その場所がどこなのか探る。夢の中、現実、或いはその狭間か。頭が微かに動く。まるで誰かを探すようにして。しかし少女はその声の主を探す事も途中で放棄して、もう一度その美しい刀を抱いて怠惰に沈もうと微睡みを始めていた。むに、と唇を重ね合わせ、大きくため息を吐くようにして肩を動かす。またその場所で居心地のよい空間に身を寄せるようにして、もぞりと白いバレリーナのような衣装を動かした所で、一期一振は釘を刺すようにして瞳を細めた。


「さて、兄の言う事が聞けぬ子は一体誰だろう」


 茶化すような言葉に、けれども弾かれ、少女の瞼がぱちと開かれた。


「十を数えて起きぬ悪い子は、私の妹ではないのかもしれないな。私の妹なら、きっとそんな事はしないだろうからね。けれど、そうだな。念の為数えてみようか、……ひとつ、ふたつ」

 静かに指折り数えられる声色に、少女は美しい刀を抱えたまま起き上がった。透き通るアメジストのような飾り玉がごつんと腕にぶつかる。けれどもその痛みすら些細な事のように思えて、少女は必死に目を見開いた。起きています、起きていますとも。そんな風に主張するように何度か瞬きを繰り返してみせて、許されようとする。瞼が重い。微睡むような心地に安堵していた身体が、どうにも安眠を手放せない。けれども少女は抱き抱えたその刀の冷たさに目を覚ますようにして、必死に瞬きを落とした。


「……お、おはよう。兄さま」

 零した声は少しばかり間が抜けて、どこか未だに夢の中だ。呂律が曖昧に絡まって、どうにも不安定で覚束無い。それでも一期一振は瞳を細めた。その行動を肯定するように、一度だけ静かに瞬きをして、数を数えていた手のひらを膝の上へと戻していく。少女はそれだけで、自分が許されたのだという事を知った。


「おはよう。けれど、髪は少し整えなさい」

「ご、ごめんなさい」

「咎めているわけではないよ。寝起きなのだから、仕方がない。けれど、そのままだと、ほかの刀には示しがつかないだろう」


 柔らかく落ちる言葉に、少女は安堵するように細い息を吐いた。自然と肩が落ちて、丸くなる。鏡が目の前にあるわけではないから、指先で軽く頭を撫でつけた。前髪を摘んで整える振りをする。手櫛をいくつか通そうとして、漸く刀を抱き抱えている事に気がついた。そこで漸く、嗚呼、と何かに納得する。


「ごめんなさい、兄さま。私、刀を」


 そこまで言えば、一期一振がくてりと首を傾けた。少女はそれを合図と思ったのか、申し訳なさそうにそれを両手で抱え直し、朱と金の美しい刀を恐る恐ると差し出した。その仕草を静かに見下ろした一期一振が、一度だけその金色の瞳を伏せ、少女に向かい頭を軽く頭を垂れたあと、それを黙って受け取った。ただそれだけの行為だった。腰に美しい刀を下げる、美しい神様は、怒る訳でもなく、咎める事もしなかった。


「……兄さま、怒った?」


 少女は思い切って聞いた。声が少しばかり震えていた事は、声を出してから自覚した。緊張するのだ。出来のよい兄の前。少女は無意識に背筋を伸ばした。一期一振はその鞘から視線をあげて、少女のくすんだ青い瞳を見た。少女は咄嗟に、視線を逸らした。


「怒ってなどいないよ。私が置いてしまっていたのも、悪かった」


 その一言に、少女は大きく肩を落とした。無意識のうちに大きなため息に似た呼吸が漏れる。そうかと、納得するように視線を下し、何度か瞬きをしながらその言葉を飲み込もうとしていた。一期一振はもう一度刀に手を伸ばし、自分の都合の良い所へとしっかり固定すれば、口角を釣り上げて少し笑ってみせる。


「あんな短時間で眠ってしまうとは、思わなくてね」

「……眠たかったから」

「今回は私の監督不行き届きだよ。ぬいぐるみと刀を間違えて抱いて寝るなんて、誰も思いつかないだろうからね」

「わ、わざとだもの!」

「わざとなら、質が悪い。刀はそう簡単に触るものではないよ。怪我をする。それにこれは簡単に命を取る、死神の鎌のようなものだ。お前の意思とは裏腹に、するりと連れて行かれてしまうかもしれない」


 少女は静かに一期一振を見上げた。瞬きを忘れたような瞳は、視線だけでその姿を見上げて、その金色の瞳の奥を探るようにして見る。一期一振はその瞳を、釣られるようにして真似して見据えた。

「……どこへ?」

 微かに震えるようにも思うその言葉に、一期一振は思わずその刀に指先を触れさせた。硬い、無機質な感覚が、手袋越しに触れずとも理解できる。けれども、もう一度それに触れた。硬く、無機質な事を確認するようにして、指先が思わずその刀の鞘を撫でた。少女の視界の外側で。


「私の手が、二度と届かぬ場所へ」

 少女は何かを言いかけるようにして唇を動かした。動かして、何も音にはならなかった。ただ不安げに動く唇を、一期一振はただ静かに見下ろしただけだった。


 一期一振は、この本丸に二番目に来た刀である。初鍛刀。初期刀と言われる加州清光の次に、この本丸を知る刀だった。常ならば短刀が担う筈のその席を、太刀である一期一振が担う事は極めて珍しい例だと、後に誰から語られた。例えばそれが、何か理由のあってこそと疑うものも珍しくなかった。殆ど異例であったその顕現に、肝心の少女は殆ど心当たりが無かった。元より、刀にはとんと詳しくはない。一期一振という刀も、初期刀である加州清光という刀すら存在を知らなかった。経歴も、この刀が歩んだ歴史も、未だに知る事はない。一度、周りに急かされるようにして焦り、何故この本丸にやってきたのかと一期一振に少女は問うた。その時も、ぼんやりと膜の張ったような表情で、一期一振は言った。何も覚えがないのです、と。

 後に、一期一振は一度燃えた刀だと知った。それも、本人からなんとなくそうだったと思う、と聞かされた程度だった。記憶がないのは恐らくそれが原因であろうと、ぼんやりと零す言葉を、少女はそうなのだなと疑わず、納得して聞いた。


 一期一振は兄である。紛れもない、この少女の兄である。


 少女の為に刀を振るい、少女の為にこの世界を守る、謂わば盾である。少女がそれを望んだのか、一期一振が自らそれを名乗り出たのか。具体的な記憶は二人の間にも殆ど存在していなかった。ただ少女はその刀を兄だと慕い、その刀は少女を妹のように扱った。少女は兄の言葉に耳を傾け、兄の敬愛を受け、兄の膝下で眠った。兄はそれが勤めであると言わんばかりに、見守った。柔らかなベールの下に包まれるようにして、その優しさは確かに少女に寄り添った。


「なんと、美しい兄妹愛だなぁ」

 くてりと首を傾けた白い人影が、まるで安い道化を真似るようにして笑ってみせた。扉の近く、音も上げずに声を上げたその神様の姿に、少女は瞳を丸くし、一期一振は微かに親指を鯉口に掛けた。


「つるまる」

「やあ主、邪魔をしたかな?」

「ううん、突然どうしたの」


 少女の後ろで虚ろなまま、刀に手を掛ける一期一振の姿を隠さずに口元だけで笑ってやる。まるで動く磁器人形のようだ。顔ばかりが美しく、けれど少女は何一つだって気づかない。鶴丸国永はそんな風に愉快さを顕にしながら、杖のようにしてその白い刀の柄頭に手のひらを重ね、顎を乗せた。時折ぐらぐらと揺らしてみせながら、折った腰のあたりでバランスを取る。視線は時折ふわふわと泳ぎながら、唇が軽く開いた。


「戦況報告さ。第一部隊が戦に出ただろう。……嗚呼、君はもしかしたら知らなかったかもしれないな。一期一振が勝手に行かせたから」


 重ねた手のひらから人差し指だけを、少女の後ろに鎮座する神様に向けた。少女はそれを視線で追おうとして、やめた。それはとても些細な事だと理解していたからだ。


「私、寝てしまっていたから。兄さまがやってくれていたんだわ。それで、どうだった? みんな無事に、帰ってきたのでしょう?」

「嗚呼、勿論。俺が主の言いつけを破るはずもない。部隊には加州清光も居たしな。戦果は上々。資材も幾つか持ち帰ったし、……嗚呼あと、刀を幾つか持ち帰った」


 鶴丸の言葉に瞼を動かしたのは、少女だけではなかった。一期一振も静かに鶴丸国永を見据え、瞬きの一つを落とす。

 この本丸に刀の神様の顕現はあまり無い。戦果として持ち帰る事も殆ど希だ。少女がこの本丸の主となってから、幾許かの時間は流れたが、この屋根裏にある小さな本丸にある刀は酷く少ない。他の本丸と比べても、圧倒的に数が無い。両手があっても余る程度の刀で、この本丸は静かに回っていた。様々な理由があるのだろうと周りの大人は邪推したし、審神者としての力が足りないせいであろうと少女は理解していたから、新しい刀と聞いて動揺を隠せる筈が無かった。それは殆ど有り得ない事なのだ。この本丸にとっての囁かな非日常。思わず少女は手のひらに汗を感じて、それを握り締めた。


「あたらしい、かたな?」

「ひとつは名を薬研藤四郎と言う。一期一振なら分かるだろう。粟田口吉光作の短刀の一つだ。薬研は切っても主人の腹は切らなかったと逸話が残る名刀よ。けれども、まあ。どうにも、この本丸では抱えきれぬかもしれないなあ」


 煮え切らない鶴丸の言葉に、少女は首を傾けた。くるりと丸まった髪先が肩から落ちて頭を緩く引っ張る。鶴丸は金星のような瞳を細めれば、杖のように置いた刀を大きく斜めに傾けた。上半身がずい、と前に傾くような形で、少女の真似をするように首を傾ける。


「如何せん、戦好きだ。主が思うよりもずぅと。あいつは籠の中でぬくぬくするのは好まんだろうさ。現に、既にお冠だ。早く戦に出たいんだとさ」

「そのような刀を、何故拾って来られた」


 冷ややかに落ちる一期一振の声に、鶴丸はあからさまに唇を尖らせた。乗り出した身体を後ろに引いて、ぐんと距離を取る。信じられないと言わんばかりの表情で、声を大げさに荒げた。


「お前の兄弟刀だろう! 皆お前には世話になっている。満場一致で連れて帰ろうという話になった。それとも、兄弟刀は嬉しくないと? 随分薄情な兄さまも居たものだ」

「鶴丸国永」

「本当の事を言っただけだ」


 一期一振の声色とは裏腹に、愉快そうな瞳はするりと柄頭から顔を上げた。足先で柄の先端を蹴り上げて、それを肩まで持ち上げる。ぐんと背伸びするように両手で持ち上げたかと思えば、今度はそれを首のあたりで押し止めて、両手をぷらりと引っ掛けた。まるで両手を囚われた罪人のような格好を、鶴丸は見せびらかすように両手をぷらぷらと揺らしてみせた。


「それから拾い刀はもうひとり居る。ええと、どんなやつだったかな。刀種は打刀。髪と瞳が空のように青くて――」

「鶴丸国永、それ以上の戯言は主の御前。控えなされよ」


 かつりと、軽くぶつかる音がする。それが飾り玉が床を叩く音だと、少女は振り返るまで理解が出来なかった。片足を立てた一期一振が、何をしようとしているのか。その視線がまっすぐと鶴丸に向かっている事を見れば、少女であれど理解は出来た。けれども鶴丸は相変わらずぷらりと両手を揺らしてみせるばかりで、驚いた様子も、前言を撤回しようとする様子もない。ただ全てをのんびりと眺めながら、少しふざける様にして首をかくりと傾けた。


「ううん。すまない。打刀の方は俺の覚え違いだったようだ」

「覚え違い……?」

「嗚呼、持ち帰ろうとしたような気はしたんだが、持ち帰れなかったのか、なんだったか……いや、会いはしたような気はしたんだが。うん? けれどもそれは、以前の出陣の時の話だったかな。いやあ、すまん。如何せん記憶がどうにも曖昧でな。長く生きるとこういう所が困る」


 からからと笑う声は、まるでガラスを叩くビー玉のようだった。少女は何度か瞬きを繰り返したあと、少し体を前に乗り出す。指先が体を支えた瞬間を、一期一振が静かに見下ろした。


「名前は」

「うん?」

「……名前は、なんという子だった?」


 鶴丸国永は少女を、ただ数拍の間見つめた。


「すまない。名は聞いていなかった。もしや主の知る刀だったかな?」


 少女は何度か瞬きを繰り返した。前のめりになっていた身体が少しずつ重心を取り戻していく。のろのろとした動きで戻る身体は、背中を小さく丸めながら収まった。


「いえ、……いえ、知らない子だわ。この本丸に居る子以外は、知らない」

「そうか。期待させるような事を言ってすまなかったな。けれども、薬研藤四郎の方は実際に持ち帰った事は保証しよう。刀が一本増えたんだ。素直に喜ぶといい。多少の扱いにくさはあるだろうが、なに、君の兄さまがどうにかしてくれるだろう」


 その言葉に少女がゆるりと背後を振り返れば、一期一振はほんの小さく息を吐いた。鶴丸から視線を逸らさぬまま、思案するような短い空白が置かれたあと、静かに少女を見下ろした。


「薬研は私が見よう。何も心配する事はないよ」

「……兄さま」

「私が嘘をついた事があるかい。大丈夫。心配ならば小狐丸をここに呼ぼう。私は薬研を連れて出陣に出るから、かの刀の元ならお前も安心だろう」


 不安げに眉尻を落とす少女に、一期一振は穏やかに笑った。視線を合わせるように背を軽く丸め、子供をあやす様な柔らかな声色を載せる。


「誰も折れたりはしない。誰も帰らぬことはないよ。私が居る限り、今までもそうだっただろう。これからも、勿論そうだ。この場所は、お前が望む通りにある。それを守るのが、兄の役目だろう。違うかな?」


 少女はぱたりと瞬きをする。一期一振の瞳は常と変わらない。どこまでも優しく、どこまでも慈しみにあふれた、兄の瞳だった。

「……ううん、違わない」

 小さく頷くように視線を落とせば、一期一振はそれを静かに見下ろした侭立ち上がった。腰に自身の得物を下げ、鶴丸を一度ひたりと見据えれば、視線で扉を促した。鶴丸は茶化すように肩を軽く上げて見せれば、けれどもそれに歯向かうことはしない。


「じゃあ主、少し兄さまをお借りするぜ」

 肩から刀をするりと抜けば、罪人よろしく存在していた鶴丸は、片手でひらりと宙を撫でた。少女はそれに軽く頷く。けれども鶴丸はそれを振り向き確認もせぬまま、その白い部屋から抜け出した。一期一振はその背中を追うように扉を潜った後、やはり少女を振り返らずに扉を閉めた。白い扉の向こう側。無理に塗りつぶされてた空間の中に、ぽつりと少女だけが取り残された。



               ***



「君、いつまであんな態度を取るつもりだい?」

 鶴丸の言葉に、一期一振は一瞬その後頭部を見つめた。白く、ふわふわとした鳥のような頭だった。やがてそれに興味がなくなったように足元に視線を落とす。階段を一段、一段と降りていく。時折踵がそれに合わせて音を立てる。かつりと落ちる、それは確かな足音だった。


「あんな態度、とは」

「まるで自分が本物の兄のような態度を取る。主は人間で、君は刀だ。百歩譲って主が俺達を呼んだ人だからといって、兄のような態度を取る理由にはならんだろう。」

「……」

「けれども、君達はそれがまるで当たり前の事みたいに装う。初期刀の加州でさえ、それに特に追求するような素振りもない。そして、お前は二番目の刀。この本丸の古株だ。殆どそう言って差し支えがない。だから誰も理由がわからない。あの子が妹で、君が兄になる理由が」


 鶴丸は階段の踏み板の上、手すりに体重を傾けながら器用にくるりと回って見せたが、一期一振はそれに靡いた羽織を躱した。階段の一段一段を丁寧に降りていけば、やがて本丸の中心部が見えてくるだろう。無造作に貼られた紙が揺れる、壁。光源も分からない、ただ白い光ばかりを差し込む窓。それから、出陣帰りの幾振りかの刀。


「教えてくれ、なぜ君はそんなに空っぽなんだ。彼女の兄であると自負する癖に、なぜ君はそんなに中身が空っぽなんだ。まるで、拾ってきた空き瓶だ。外側だけは莫迦みたいに頑丈な癖に、中には何もない。兄であると自称する癖に、君はあの子に触れようともしない。慈しむようにも、可愛がるようにも触れようとしない。刀の矜持はどこに行った? 君は一体何を考えてる? 何を目的として、あの子の兄を自称するんだ?」


 階段の最後一段を、塞ぐように鶴丸が立ち止まった所で、漸く一期一振は緩く顔を上げた。それは不安でも、苛立ちでも、思案でもない。ただぼんやりとそこに存在するだけの顔だった。鶴丸の言葉にさしたる影響を受けるわけでもない。その言葉が、まるで存在していた事を理解できていないような侭、一期一振は静かに言った。


「……理由が必要なのですか。そうあるべきと然したる理由が、貴方には必要なのですか」


 まるでそれは美しいガラス玉のようだった。少なくとも鶴丸国永にはそう見えた。ガラス玉の中心に、何もないように。一期一振の瞳の中にも同じく、何一つ、何も存在していなかった。人というのは大抵そこに何かある。刀も然り。語弊なく言えば人の形を取る物は必ず瞳の中に一つ何かを抱えている。問いかけをした鶴丸国永も例外ではなく、少女ですらもまた、瞳の中に抱えるものはある。人は時にそれを感情と呼び、時に人格と呼び、時にそれを人の芯と呼ぶ。けれども一期一振に、そういった物は存在していなかった。欠落とも言っていいのだろう。もしくは、それはある種の忘却なのかもしれない。鶴丸国永は見間違いかと思いぱたりと一度瞬きを落としたが、それでも一期一振の瞳の色は変わらなかった。


「あの子が私を兄と呼ぶ。そう求められている。それ以外の一体何が必要であるというのですか」

「一期一振」

「では逆に何があれば、此れが認められるというのでしょう。どんな理由があれば、此れが認められるというのですか。鶴丸国永。貴方にも分かっている筈。この場所に来た時点で、貴方も求められているのだということ。それに貴方も、同意しているのだということ」


 鶴丸は静かに一期一振と対峙した。互いに敵意があるわけではない。それは絶対的な対話であり、それ以外の何者でもなかった。


「理解している」

「ならば、今更私から話すこともないでしょう」

「いいや、あるさ。俺の記憶にある、……正確には鶴丸国永の子として記憶にある俺が見た一期一振と、お前は余りにも異なる。個体差というには少し余るぐらいに。それは、何故だ。理由はなんだ。この本丸に来た事に理由があるのか」


 一期一振は苛立つ様子もなく、一度だけ瞬きを落とした。相変わらず刀の鞘に手を触れさせながら、けれども思案するように一度ぼんやりと鶴丸に視線だけを投げる。敵意はない。殺意もない。けれども確かめるようにして、指先はそれに触れていた。


「……さあ、なぜでしょうか。今の主の影響でしょうか」


 ふつりと、唇から途切れるように小さく溢れた言葉に、一期一振は少しばかり自嘲するように、小さく笑った。


「記憶がないものですから。私にはわかりませんな」

「一期一振、」

「刀としての矜持が必要なのであれば、私はこの場所で求められている。それで充分ではないですか。刀として、人の身を得たモノとして。どんな形であれ、私はこの場所で、あの子に、求められている。それに答える事が私の矜持です。それ以外の一体何が、必要なのですか」

「……」

「逆に何があれば、貴方は私を私と認めるのですか。その全てが本当に私を私たらしめる物であると、誰ひとりとして説明も証明もできないくせに。貴方はそれが目の前にあれば満足ですか。それならば、なんでも構いません。どうぞ。好きなだけ並べて、好きなだけ納得してください」


 鶴丸は、思わずふはりと笑った。喉元がきゅうと締まる。腹が痙攣するように何度かへこみ、くつくつと震える唇を隠すようにして手のひらで覆った。階段を、一段、更にもう一段降りる。ひんやりとした板の感覚が、素足の裏から直接的に鶴丸を冷やしていたが、それも鶴丸にとっては愉快だった。


「嗚呼、うん。その君は知っている。君は頑固だ。そうして、人の話をとんと聞かない。全く聞かないな。成る程、嗚呼、うん。そうか。安心した。君は俺の知る君であったようだ。間違いがない。これほど頑固で融通の効かない刀も珍しいだろうさ」


 ひぃ、と涙が出るほど愉快がる鶴丸を、一期一振は見下ろしていた。ただ静かに見下ろしていた。


「……不変です」


 ほつりと呟いた言葉に、鶴丸が静かに顔を上げる。


「変わる事は望まれていない。この本丸に蔓延すべきは、ただ曇りのない一篇の不変。停滞。安寧。あの子はそれを望んでいる」


 涙を拭っていた鶴丸が微かに首を傾けた。白いフードのついた羽織がそれに合わせて肩からずれ落ちる。伺うように一期一振の瞳を覗き込んだが、そこには相変わらず何も見えない。見開くように丸め込まれた金星の瞳が、一期一振の瞳を真似するようにして、ただの一つの中身も宿さぬまま、それを見上げた。


「それが君の望むところか」


 一期一振は、変わらずに言った。


「私はあの子の兄さま。求められたのは、絶対的な擁護。例え喉が焼けようと、例え足が痛みに裂けようと。最後は泡となり消えましょう。刃はあの子に向けるべきものではなく、最後は常に海に捨てるものです」


 鶴丸は大きく息を吸い込んだ後、薄く吐いた。


「……お前はジョークが似合わぬ刀だな」


 一期一振は、空の瞳のまま口角だけを釣り上げた。


「何分、戯言は慣れませんから。あの子に読む絵本ばかりは、慣れてしまいましたが」


 鶴丸は一期一振をじぃと見上げた後、やがて興味をなくしたようにして、背を向けた。






  Hush, baby, my dolly, I pray you don't cry,

  良い子 良い子 いい子だから泣かないで

  And I'll give you some bread, and some milk by-and-by;

  パンを少しあげましょう ミルクも一緒にあげましょう

  Or perhaps you like custard, or, maybe, a tart,

  それともカスタードプリン? それともタルト?

  Then to either you're welcome, with all my heart.

  それも全部あげましょう だからどうか泣かないで

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