プロムナード

 小さな頃はバレリーナに憧れていた。


 エトワール、プリンシパル。呼び方はどれでも良かった。幼い私は、花嫁のベールによく似た、チュチュ越しに見えるきらきらと淡く光る足、丸く可愛いトウシューズ、それから、反る指先の美しさ。レースのカーテン越しに見る、早朝の冷えた空気のように繊細な仕草に魅了され、初めて両親から公演に連れて行ってもらった日の夜に、文字通り夢に見た。自分が真っ白な衣装を着て、トゥシューズを履いて、ステージの真ん中で美しくバレエを踊る夢だ。子供っぽく現実味のない、けれどもきらきらと光る星のような夢だった。

 例えば私がバレリーナになれたのなら、毎日がどんなに素晴らしく、どんなに素敵なものになるのだろう。その中でもあのステージの中心、あの場所でライトを浴びて踊れたなら。その現実に、この世界の何が敵うというのだろう。幼心ながら、私はそれが世界で一番尊く、素晴らしいものであるような気がしていた。夢の中で体験した私は、言いようもない程素晴らしい、純白の衣装を着てきらきらと輝いていたからだ。その姿はまるでお姫様のようでもあり、文字通りお星様のようでもあって、私はその眩しいステージから見た割れんばかりの拍手と、影になった客席から立ち上がる無数の人の姿を、今でもよく覚えている。


 初めて履いたファーストシューズを、私はまだ未練がましくも持っていた。


 部屋の壁に飾られたそれは、どこまでも装飾品に過ぎなかったけれど、装飾品と片付けるには生々しい練習の跡は残っていた。トゥシューズに憧れながらも、小さかった私にはそれはまだ早く、想像していた物とは違うふにゃふにゃの柔らかいシューズを貰ったのだ。ピンク色で、足をゴムで固定する初心者用のバレエシューズは、それでもすぐに私の宝物になった。

 初めての発表会は勿論楽しかった。想像していた何倍も、楽しかった。何度も夢に見て憧れたチュチュを身につけて、煌びやかな髪飾りを付けてもらえる。普段とは違う会場の楽屋で、友人とふざけながらはしゃいだ。その日は、その全てが特別だった。ふわふわ広がるスカートはまるでお姫様のようだったし、私がその小さな稽古場の中でエトワールになれなかったとしても、私の中ではいつだって私が主役だった。練習の苦しさに幼いが故についていけない事はあったが、練習自体は楽しかった。私はお気に入りのふにゃふにゃのバレエシューズと、子供っぽいピンク色のレオタードを着れば、誰がなんと言おうと、心の中で私はプロのバレリーナだったのだ。文句の一つも言うはずがなかった。


 からりとも、レモネードは鳴らない。

 溶け切った氷がグラスを叩くはずもなく、水滴が時折テーブルを濡らすぐらいで、レモネードは色が少し薄くなっていた。代わりに耳にきんと来るような叫び声が聞こえる。その後、それを喰い殺すようにして腹の底を叩くような低い声が家をぐらぐらと揺らした。クローゼットの奥でハンガーが微かに揺れる。お気に入りの白いワンピースもまた、ハンガーにつられて軽く揺れていたのだろう。溜まった埃がはらはらと涙を流すように溢れ出して来た所で、私はぎぃとベッドを軋ませながら重い身体を持ち上げた。

 子供っぽいくすんだ水色の壁紙は私が本当に赤ん坊の時から、何も変わっていないらしい。お気に入りだった折り紙を切って作ったガーランドも、黒い紙に穴を開けて作ったプラネタリウムも、駄々を捏ねて買ってもらった星型のペンダントライトも、ぼろぼろになったバレエシューズも。この部屋はまるごと私の秘密の宝箱だった。


 それも最近、どうにも居心地が悪い。


 ひやりとする床板の上に足の裏をつけないよう、つま先立ちでそぅっと歩く。一歩、二歩と歩いてドアノブに手を触れた所で、その家を震わせていた声の原因に気がついた。それは男性だった。ざらついた声で何かを叩くようにして声を振り上げている。対してきんと耳につく声は、女性だろうか。号哭するような声は何故か心臓がどきどきする程、心持ち大変よろしくない物である事はわかった。二人はひとしきり言葉を交わしあっていた。何を言っているのか、具体的な内容は聞き取れなかったけれど、兎に角碌でもない事なのは分かった。ガラスが割れる音がする。女性の金切り声がまた家を揺らした。私はそれに隠れるようにして、慣れたつま先歩きでそっと廊下を横切った。


 思うのだ。例えば世界が自分にとってとても生き難い物だったとして。そこから逃げてしまう事と、世界に愛想を尽かして消えてしまう事では、一体どちらの方が正しく利口な事なのだろう。


 私は、それはきっとどちらも真に褒められる行為ではないのだろうと思う。世界というものはいつも正しく正義であり、それに馴染めぬ物はいつだって異端で、異質で、異物であるのだ。言うなれば生き難い世界が悪いのではなく、その世界を生き難いと感じる私が最もたる悪なのである。悪という物は大抵が忌み嫌われる物だからして、私が世界から逃げてしまっても、愛想を尽かして消えてしまっても、私が悪い事には変わりがないのだ。何をしたって、私が世界に対して絶対的な悪である事は、何一つ変わらない。

 ならば、絶対の悪である私がこの世界で心地よく生きる為には、何が正しく正解なのだろう。何がより正解に近いのだろう。何をする事が正解なのだろう。何であれば正解である事を許されるのだろう。私はただ、バレリーナを夢見る少女であれれば、他には何も望みなんてしなかったのに。


 短い廊下の隅、屋根裏部屋に続く階段の一段目は、ぎぃと少し音が煩いから、私は慎重につま先を乗せた。バレエで覚えた体重移動はこういう時には恐ろしく便利で、誰も私が部屋を出た事なんて存在しない事実のように捉えていた。私は丁寧に二段目に足を乗せる。階段下の物置で埃が舞った。どうでもいい事だ。なにせ階段下の物置なんて、誰も殆ど使いはしなかったからだ。それこそ、年に一度開ければいい方だ。現に鍵付きの金具は錆きっていて、開けるのにはうんと力がいる。きっと両親もその存在なんてとんと忘れているのだろう。まるで私の事みたいに。ずっと気にしている風を装いながら、気になどしたこともないのだ。


 世界にはバレリーナに選ばれる人もいる。私が夢見た憧れのエトワールに選ばれる人だっている。過去も、この先に待ち受ける未来でも。私が夢見た物に選ばれる人がいる。けれども、私はバレリーナには選ばれなかった。それどころか、この世界に心地よく住む事すら許されなかった。許されないというのは人が想像するよりもうんと過酷で、うんと息苦しい。何を大げさなと笑う人もいるけれど、そういう人は大抵選ばれた人なのだ。からからと音を立てながら笑う事を許され、そうする事を選ばれた人なのだ。私は選ばれなかった。バレリーナになることも。そんな事が小さな頃の夢だったとはにかみながら笑うことも。あの頃は子供だったからと、免罪符のように懐かしみながら当たり前のように生きる事を。

 そうする事を許される人に、選ばれなかった。

 けれども、私はその側面で一つの事に選ばれた。才能などという、目には見えない、私が一番好きではなかった言葉で、私は選ばれた。私は私が生き難い世界の為に、私を犠牲にしてこの世界を守る事を許され、選ばれた。それは悲劇と言うには余りにもチープで、喜劇というにはありふれすぎている。世界に何万冊と存在するような作り話の主人公のようにして、私は世界に選ばれた。私はただ、バレリーナを夢見る少女であれれば、世界中に存在する本の主人公になれなくても良かったのに。


「…………」


 白いペンキで塗られた木製の扉は、少しばかりがたついているようにも見えた。ドアノブは在り来りな錆びた金属製で、触ると少し手のひらに粉がつく。ぎしりと音が立つ床板は時折私の体重ではなく、下から響く声に反応するようにして軋んだ。私はそれを瞬きをしながら聞き流す。まるで早朝に聞こえる鳥の鳴き声みたいに、それは殆ど私の日常の中の一つだった。

 思うのだ。例えば私が、私が生き難い世界の中で生きなければならないのなら、少しぐらいは逃げてしまってもいいのではないかと。思うのだ。例えば私が、私が生き難い世界の為に戦い、死ななければならないのなら、少しぐらいは楽園のような心地の良い空間に浸ってしまってもいいのではないかと。


 単純に、自分という存在が世界を救う為だけに生まれ、世界を救う為だけに生きてきたのだと思いたくなかったのかもしれないし、選ばれたのならば自分だって選びたかったのかもしれない。取捨選択を羨んだ自分は世界から選ばれた。単純な話であれば良かったのに、私は世界を好んでは居なかった。それなのに、私ばかりが世界の為に頑張ろうと割り切れる程、私は作られた人間でもなかった。私はこの世界に何かきらきらとした思い出があったわけでも、守りたい人があるわけでもない。強いて言うならば、私の自室ぐらいは守ってくれないだろうかと、その程度だった。それなのに身を粉にしてもこの世界の為に頑張ろうとは、到底思えなかった。もしも私が、当たり前に生活をして、小さな頃はバレリーナになろうと本気で思っていたのよ、と笑えるような未来が存在するならば、過去なんて変わってしまえばいいとも、思っていた。才能なんて不安定な理由で世界のヒーローを押し付けられて、はい、私は皆の未来の為に頑張りますなんて言える出来た人間が、一体この世界には何人いるのだろう。少なくとも私は、いいえ、私に頼るような世界なんて何一つ残さない程度に滅んでしまってくださいと、思う。今まで私に冷たくしておきながら、助けてくれなんて、随分と虫のいい話だ。


 それでも、私がこの世界に悪態をつき過去の夢に想いを馳せる傍らで、世界のヒーローを気取るのにはきっと、とても愚かな理由がある。


 それはもしかすれば世界が見せるまやかしなのかもしれない。世界が世界であるべくして見せる夢なのかもしれないし、私のようにヒーローを嫌う悪餓鬼を騙す使い古された手段なのかもしれない。人は愚かだと指をさすかもしれないし、私だって私を見れば馬鹿な子だと笑うかもしれない。それでも確かに、それは私の救いだったし、私の光だったし、私が初めて呼吸ができる、唯一の世界だった。

 自分の為にヒーローを気取る私を、彼らは嫌うかも知れない。莫迦な人の子だと思っているのかもしれない。私の事を愚かだと思っているかもしれない。慰めすら必要もないぐらい、自分勝手だと思っているのかもしれない。知られれば幻滅されるかもしれない。皆が全て、私に背を向けてしまうのかもしれない。

 けれども、その認知すら、私は私が求めていたものだったと、認めざるを得なかった。

 錆びたドアノブを指の腹が撫でる。かさついたその手触りは小さな頃から何一つ変わりはしない。それはいつだって私の秘密基地で、いつだって私の世界だった。見た事もない妖精の絵を沢山書いたりした。それは私の大親友だった。金色の折り紙を沢山集めたり、画用紙にお星様を沢山書いて天井に貼り付けたり、部屋の中にテントを張ってそこで寝泊りしたりもした。お気に入りのランプはお小遣いを必死に貯めて買った。魔法と剣の子供だましのようなファンタジーが書かれたハードカバーの本も、もう何度も読んだ。少し背伸びした文庫本も。好きだった子とお揃いで買ったクッションも。ぬいぐるみも。全てが詰まった屋根裏部屋は私の大切な秘密基地だった。

 それは、今でもそうだ。

 私の屋根裏部屋は誰も知らない秘密基地。小さい頃と少し違うのは、その向こうには神様がいるという事ぐらいだろう。それ以外は小さな頃と何も変わらない。その扉の向こうは世界で唯一、私が呼吸の出来る場所。私が私であれる、唯一の逃げ道。誰がなんと私を笑っても、私が私として生きる事を許された部屋。例えばその対価に世界のヒーローを求められても、手放したくなかった私だけの。


 木の軋む音がする。ぎぃと鳴る音だけは、小さな頃とは少し違っていた。年季の入ったおじいちゃんの声のようにも聞こえる。その音だけはいつも私を温かく包んでいた。今も、昔も。その音は始まりでもあり、終わりでもある。私が私を嫌う世界の為に戦うのは、私の目に見える世界を守るため。私が呼吸できる、私が呼吸を許される世界を守るためだけに、私は今日もその部屋の扉を開く。愚かしくも、自分の為に。その私を許してくれる、屋根裏部屋の秘密基地を守る為に。



acttic

このサイトは二次創作コラボ企画「屋根裏部屋本丸」のポータルサイトです。 実在する人物、団体、その他全てのものと一切関係がございません。 サイト上の写真、文章、全ての無断転載を禁止します。 !Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibit!